2002 3月(最終回)
既に予告されていたように、物好きにも6年間続いてしまった「鈴木治行のすべて」もこれを以て最終回とさせていただきます。そもそもの初めは管理人に自分のHPに何か連載ものが欲しいと言われ、いつやめてもいいし、という軽い気持ちで始めたところが、文章を書き出すと止まらなくなるという性癖のためにここまで続いてしまったというだけのことで、なんでこんなに懲りもせずにこういう代物を書き続けてきたのかと、我ながら呆れている次第。初めは、ここでは自分の芸術上の関心事について書いているだけで、自分自身のプライヴェートなことはそんなに俎上に上げないので「鈴木治行のすべて」というタイトルはどうなのか、という気もしたけれど、結局言葉の端々から僕自身の世界観や立脚する立場が浮かび上がってくる結果になっていると思うので、やはりこのタイトルでいいのだ、と改めて思ったわけです。 始めた時に深い理由がなかったのと同様、これで打ち止めにするのにも浅い理由はあっても深い理由はなく、今回最終回で取り上げた題材だからといって特別な意味もないけれど、とりあえず今書きたいものを吐き出しておこうと思ったらいつになく量がやたらと多くなってしまった。まあこれも一興か、最後だし、と大目に見ていただいて、全部読むと疲れるならご興味のあるところだけつまみ読みしてもらえればと思います。僕自身は他にもウェブ上や紙媒体で時々文章を書いているので、ご興味のある方はそういうものをこれからも御覧になっていただければ幸いです。長い間のご愛顧ありがとうございました。 |
今月の展覧会
今月の2本
今月のマンガ
1997
1998
1999
2000
(1)カールステン・ニコライ(〜9月6日、外苑前・ワタリウム美術館)
カールステン・ニコライがものを作る時、創作物に付随する色彩だの、音楽でいえば音色だのといった要素はほとんど関心の外のように思える。実際今回の展覧会でも殆どモノクロームな世界がそこには広がっているばかりなのだが、モノクロームさを積極的に選び取っているというよりは、世界のある種の様態を可視的、可聴的なものにしてゆく時に、その事物を根源的に成立せしめている「原理」を忠実に提示することが重要で、そうなると装飾的な要素はどんどん背後に後退してゆくことになるのだろう。コンセプトを具現化した段階で、レイアウトなどは考えるにしても、それを装飾的に飾り立てることはかえって「原理」を見えにくくするだけの余計な蛇足でしかない。例えば、異なった周波数を発する音源によって水面を振動させ、そこに生じた紋様を写真にとって展示する。または、観客を自ら人工的な雪の結晶の生成に参加させる。象徴的なのは今回3階に置かれていたクラゲの泳いでいる水槽で、これ自体はどうやらただのクラゲの水槽であるらしいが、あの半透明の円形の美しい形態が、水の中を独特の収縮運動を繰り返しつつ泳ぎ回る。クラゲのみならず水槽全体を含めてのあの半透明感といい、しなやかかつ緩やかな運動性といい、これこそまさにニコライが理想とするような美のあり方なのではないか。彼がいかにハイテクを作品に取り込もうとも、このような自然界の美の形態への憧憬の念は常に基調としてあるのだろう。しかしその「自然」とは極めて控えめに抑制された陰の理念であって、いわゆるエコロジー・アートとも全くスタンスを異にしているのだ。エコロジカルというよりは、自然界の美につながる秩序としての数学、的なものへの嗜好と言うべきか。ニコライは音楽活動でも知られており僕自身もそっちの方で先に知っていたわけだが、音楽家としては意識的に科学的アプローチを行うnoto、更にそのメタ的な存在としてのalva notoといった別の名前で活動している。not o/alva notoはしばしば電子音のパルスなども使用し、一見自然から離反しているように見えなくもないのだが、先の数学→自然、的な価値観からすれば実は美術作品とそう隔たった地点で音楽をやっているわけでもない。音素材は概ねシンプルな電子音で、ここでも余計な装飾を嫌いモノクロームに「原理」を提示する、という姿勢は貫かれている(ただし音響としてシンプルという意味ではない)。彼に比べると、megoの音楽家の方に、音響の佇まいは似ていてももっと人工的な作為を感じる。
(2)やなぎみわ(〜7月14日、銀座・資生堂ギャラリー)
やなぎみわのエレベーターガールとの付き合いも長かったが、初めてこのモチーフを作品にした時は写真ではなく画廊でのエレベーターガールによるパフォーマンスであったという。画廊の中にエレベーターガールが微笑を浮かべて静かに佇んでいる風景というのもインパクトありそうだが、そうした生身性は彼女の方向ではなかったらしく、以後、すべての要素を完璧にコントロールするために写真へと向かった。このエレベーターガールのシリーズについてはいろいろなところで語られているので、今新たに付け加えることはとりあえずない。余談だがこのシリーズに充満するSF的な近未来感、人工的な感触は、写真でしか拝見していないがご本人の雰囲気とやけに一致していると思う‥‥。さて、時は下って昨2001年、横浜トリエンナーレで初めて発表された"My Grandmothers" の突然変異ぶりには意表を突かれた。そこには既にエレベーターガールの姿はなく、代わってやけに若作りの老婆たちが跋扈している風景があった。写真、というところだけが共通点で、他の要素はことごとくそれまでと異なっていた。まず、写真の撮り方が、エレベーターガールの時は非常にスタティックで完璧に練り上げられた構築物だったのが、この新シリーズにおいてはスナップショットのような、即興的な軽やかさが基本になっている(実は即興的に見せかけた緻密な創造物なのだが)。また、人物たちも、エレベーターガールのように常に固定された一つの表情しか持たないのではなく、様々な日常生活における悲喜こもごもの表情をさらけ出している。そして、各作品ごとに添付された、写真内の人物の独白としてのテキストの存在。とこれだけでは何が何だかわからないと思うので少し説明すると、このシリーズにおいてはやなぎは20代の若い女性を見つけてきて、彼女の想像する50年後の自分の姿、を特殊メイク、コンピューター合成を駆使して作り上げ、架空の物語の中に遊ばせているのだ。物語性が強まってきた(エレベーターガールにもその萌芽はあったが)というのは大きな特徴で、ある意味少し昔のシンディ・シャーマンにも通じるものがあるが、それはそれとして、ここで触れたい本題は今回の新路線、"Granddaughters" のこと。ヴィデオ・インスタレーションであるこの新作には、見たばかりの現段階においては僕は(彼女に対して初めて)いささか否定的に反応せざるを得ない。"My Grandmothers" のコンセプトを受けて、本当のおばあさん達が自分の祖母について語る、というものだが、祖母のまた祖母、という遠い過去の時の招来、そしてその語りの集積から立ち上ってくる集団的無意識としての祖母という存在、というコンセプトはわかる。語るのは若い娘の声の吹き替え(つまりこれが、祖母の思い出を語るまだ娘だった頃の自分、の暗喩だろう)で、この音声処理は、いい。すべての語る内容を聞いてはいないものの、架空の物語ではないこうした現実の思い出話では、細部は違えども話の方向は大まかなレベルで似通ってきてしまうのではないか、という危惧と、画面には現実のおばあさん(語っている主体)が映っているだけで、語られる側の祖母の祖母の存在をどう画面に反映させるのか、その辺の工夫が見えない、という点が主な疑問点。第一印象はこんなところだが、事態をしばし静観してみたい。
(3)松江泰治(〜6月8日−既に終了、水天宮前・TARO NASU GALLERY)
近年眼にする機会が増えつつある松江泰治の写真は、その全く独創的なスタイルで、見る者の記憶に容易には忘却の彼方へと追いやりようのない刻印を残す。元々彼は、世界中の荒れ地や砂漠の風景写真を延々と撮り続けることで次第に評価されてきたが、それがそんじょそこらの風景写真とは訳が違う。画面から徹底して空を排除した俯瞰のロングショットによる厳格なフレームの中、起伏の乏しい草地や砂漠の情景が淡々と映され、そのおそろしく平板な地肌は、命ある大地、などというよりも何か無機質な二次元的な人工物の表面をも思わせる。以前東松照明が、何というシリーズだったっけか、電気の集積回路を配した空間をどこまでも平面的に「地図のように」撮っていたことを思い出す。三次元のものからあえて深みを奪って二次元化するという方向性を目指す写真家はたまに存在するが、その徹底例である松江泰治の写真は、本人の地理学科卒、という経歴を抜きにしても「地図的」な有り様を示している。松江泰治の写真といえば、彼を発見した当初からいやに白っちゃけた平板な印象があって、それは露光の調節によるものなのかと思っていたが、それもあるだろうがそれだけではないことがだんだんわかってきたのは、今回の新シリーズを見てからであった。ちなみに今回の新シリーズというのは「都市」と題されており、タイトルの通りいろんな都市の風景が写されている。題材が以前と全く異なるのに、実は白っちゃけた平板な印象は全く同じで、この写真家の姿勢が対象の違いに全く左右されていないことがわかる。なぜ彼の写真はこんなに白っちゃけていて平板なのかといえば、ピーカンの日だけを選んで、その上で太陽が最も高い時間帯に太陽を背にして撮影する、というやり方を厳格に自らに課しているらしい。このことが何を意味するのかといえば、つまり事物の影が最も短い瞬間にしかシャッターを切らないということで、こうして陰影は排除され、影のない非現実的な空間がフィルムに定着される。それを、コンピューターなどの人工的な加工を一切行わずにやっている。アンセル・アダムスをその最高の達成例として、光と影による豊かなコントラストをつけるのが優れた(風景)写真を撮るための原則であるならば、松江泰治のこの方向はそうした「豊かさ」に全く背を向けている。こうした作法の結果印画紙の上に立ち現れるのは、およそ人が住んで活動しているとは思えない、時間が無限に止まったかのような「街」の姿をした何か全く別のものだ。この積極的に選び採られた「貧しさ」の彼方にこそ目を凝らそうではないか。
(1)神の結婚(1999ポルトガル、ジョアン・セザール・モンテイロ監督)
モンテイロに関してはまだまだわからないことが多すぎるので、これまで見ることのできた数本から勝手に類推し、かつうろ覚えの記憶を頼りに危うい細い糸を紡いでゆくより他にないが、そんなであっても、全貌が明らかになるまで待っていると一体いつになることやら見当もつかないので今ここでとりあえず取り上げてしまおうというわけではある。1939年生まれのモンテイロはオリヴェイラ以後の世代のポルトガル映画を担う重要な作家の一人で、近年世界的にも評価が高まりつつあるらしい。ポルトガル映画界の全体像のことは語れないが、パラパラ機会のあるごとに見てみると確かに何やらただごとではない状態になっているようにも思え、何しろ最年長のオリヴェイラからしてあの異様なテンションの高さなのだから、他にも常識を超越した異様な作家が潜んでいても不思議ではないと思っているとやっぱり他にもいた、という存在がモンテイロなのであった。何しろ初めに書いたようにまだ見えない部分が多すぎるので、今後少しずつこの作家のことが見えて来るにつれてここで書くことを訂正してゆかねばならなくなる可能性は多分にあるということはお断りしておかねばならない。モンテイロの映画のいくつかを見てまず感じる特徴は、背徳性への志向と複雑にひねりの利いた仕掛け、洗練された画面作り、そして過去の映画の引用癖、というあたりだろうか。モンテイロはオリヴェイラのことを理知的、背徳的だと語っていて、確かにそうだと思うし、オリヴェイラをブニュエルと比較しているのも全く納得できるのだが、モンテイロにしてもその同じ路線の延長上にいる作家なのだと言えよう。この『神の結婚』で若い女と同衾するガリガリに痩せたじいさんのベッドシーンはおよそ官能的というには顔を背けたくなる痛々しさに満ちているが、実はこの老人こそモンテイロ自身で、しかもニセ男爵の変人なのだ。モンテイロはオペラのアリアを頻繁に使用するが、随所に現れる卑猥さ、下品さとブルジョワジーの象徴でもあるそれらの音楽の乖離が更に背徳的なイメージを強化する。ただし、背徳といっても暗くどろどろしたものにならないのは、よく現れる不思議な明るさに満ちた遠浅の渚、のイメージのせいかもしれない。『J.W. の腰つき』(1997)や『海の花』(1986)でもフィルターのかけられたような不思議な光に満ちた渚が映画に常に明るい色調を導入していたものだが、その謎めいた光が彼の映画自体に解けない謎を投射している。『海の花』で、非常に緩慢なテンポで燭台を持って歩む人々、といった初期シュミットを思わせる表現主義的な演出があっても、(その後の別のシーンに)こうした光源不明の形而上的な光が柔らかく降り注げばもうそこにはドイツ的な表現主義とは似ても似つかぬ地中海的な色合いが立ち現れてしまうのだ。『神の結婚』では俳優にブレッソンの『スリ』を見るように勧めたというが、刑務所の面会シーンでのセリフ「君と会うために何と不思議な回り道をしてきたことか」などはもろに『スリ』だし、他にも人物の名前がロッセリーニだったり音楽がいきなり「ジョニー・ギター」になったりといった映画史への目配せは彼の映画に多くあり、これははたしてモンテイロのシネフィルだった過去の名残なのだろうか、それとも何か他の「異化」への仕掛けなのだろうか、という疑問は今後の解決を期して今は措く。
(2)帰って来たヨッパライ(1968創造社、大島渚監督)
現役の日本の映画監督で世界に向けての顔となっている人物といえばこの人、大島渚ということになる。北野武もそうだという声もあるかもしれないが、彼は90年代以降の現代日本映画の顔、であって、大島とは若干意味が違う。大島がこうした「日本の顔」になってゆく道筋は、『愛のコリーダ』(1976)をアナトール・ドーマンのプロデュースによるフランス資本で撮った時に始まったといっていいだろう。それ以降、大島渚の撮る映画は日本映画というよりは世界映画と呼びたい独自のスタンスのものになってゆく。こんなタイプは日本で他に見当たらないというだけでもその存在は興味深いが、映画そのものについては手放しで好きだと言えないどころか、かなり嫌いなものも多々あって、とはいっても妙に気になる存在ではあり、というのが彼についての偽らざる屈折した思いなのであった。純粋に作品としての煌めきで語ってしまうならば、才能の絶対量では迷わず清順や増村や神代を採るけれど、大島映画を作品としての評価だけから語っても意味がない。大島渚の映画ほど、映画が芸術の象牙の箱の中に大事にしまわれているものではない、極めて社会的な産物であることに思い至らせてくれる映画もまたとあるまい。いや、本当はすべての映画、すべての表現は社会的な産物なのだが、通常はそれは「芸術」という免罪符の元で関係ないことになっている。それを、大島はあえて人々の意識の上に呼び戻し、思い起こさせるのだ。映画は集団作業による創作物、というだけでも既に社会の縮図なのだが、話によると大島渚は一度スタッフを信用して選んだら、あとはその人自身から出てくるものを信じて任せてしまうという。そうして各スタッフが思い思いのことをやっているようでも、出来上がってみると大島映画以外の何物でもないものができあがっている、それはつまり、彼自身がその社会の中心に鎮座ましましていて、その周囲に発生した磁場の中でスタッフ、キャストがなぜか大島的な映画を作ってしまうということで、そうした磁場を発生させるのが大島渚の役割なのだろう。全く以てどこまでも社会的な存在なのだ。ところで、80年代以降の大島作品はそれ以前の肩に力入りすぎだった部分がすっきり削げ落ちてどれもすばらしいのだが、それ以前は玉石混淆、その中で最も興味深い時代は60年代後半で、隙を見ては肥大しそうになる観念とおそらく本人でさえ制御できていないであろう得体の知れぬ直感とのせめぎ合いが、時として不思議な傑作を生んだ。その最高の例がこの『帰って来たヨッパライ』に他ならない。ここでも、かねてから彼がこだわりを見せてきた「韓国」というモチーフが頻出する。日本への密航者、というところから始まり、人が日本人なのか韓国人なのかというアイデンティティの同定問題へと映画はたびたび回帰する。途中に挿入されたインタビュー・シーンの中で佐藤慶が自分は韓国人だと答えるが、フィクションの中に差し挟まれたドキュメンタリーであるはずのこの部分で佐藤がこう答えていることから、佐藤が本当はどちらなのか、という「真実」は攪乱される(フィクションの中で同じことを言っていたら、誰もがこれは映画の中の役柄にすぎないと思うだろう)。あるいは初めて見た時からやけに印象に残ってしまう殿山泰治のたばこ屋のおばさん。なぜ殿山がおじさんではなくおばさんなのか。こうした多くの細部から醸し出される不気味な不安定な感覚は、人を同定するアイデンティティが何かと宙吊りにされるところから生じるのだ。そのもっと大きな全体構造にまで関わる応用が、途中からそれまでのエピソードが二度繰り返される、という大胆な仕掛けだ。繰り返されながらも、細部はどこか違っている。一体どちらが現実でどちらが夢なのか、もはや判別できる者は誰もいない。更に、こうした仕掛けだけならもっと重い観念的な映画になっていたかもしれないところを救っているのがフォーク・クルセダーズの起用で、あのいかにも軟弱な三人組の存在が(そしてあの「歌」が)この映画の不安定な足取りをどこまでも軽やかなものにしているのだ。こうした点において、同時期の一連の「観念論的不条理もの」の中でも抜きん出た一本だといえよう。
今月のマンガは、20世紀末、ほぼ同時期に連載されていた対照的な二つの長編を取り上げます。
(1)ドラゴンヘッド(望月峯太郎、1995〜2000)
最初の数年間は新感覚のギャグマンガの担い手として認知されていたと思う望月峯太郎は、『座敷女』(1993)で突如ホラー路線へと踏み出し、人間の暗部にあえて光を当てるような方向へと守備範囲を拡張してゆく。これは、一つには初期と比べると絵の書き込みが緻密になってきたことと関係があるだろう。特に読者をその世界観の中に巻き込まないことには体験が成立しない路線(恐怖マンガもその一つ)では、世界が絵的にリアルに構築されていないと巻き込みは難しい。しかし、この『ドラゴンヘッド』は、明らかに巻き込み型の作品だとはいえ実は恐怖でもホラーでもあるまい。怖くないわけではないが、それは恐怖というよりむしろ畏怖に近い感情を喚起するのだ。文明が崩壊した後に、原初的な未知の世界の広がりへの畏怖の念を図らずも取り戻してしまった人間の物語。その感情の基本形は「闇が怖い」とでも要約できるだろうか。闇=不可知のもの、への畏れが人間を文明へと駆り立てたのだとすれば、そうした闇を至るところから追放してきたのが歴史で、作者はそこへ大異変を契機として一挙に膨大な未知の闇を、闇への畏れを取り戻させようとした。地下の王国のボスの言う「失われた恐怖を取り戻す」というのはこの作品全体の指し示す方向性ともベクトルを同じうしている。サバイバルものにもいろいろあるが、ここまで救いの見えない作品も珍しい。最初は異変はトンネルの中だけなのか、という期待を抱かせるものの、外へ出たら事態は更にひどいことがわかってきて、何かあるかもしれないとやっとこさ東京にたどり着いてもそこに救いはない。ここまで風呂敷を拡げてしまうと、はたしてどうやってこの事態を回収するのか、回収できるのかという不安が頭をもたげてくる、という点ではかの『ガラスの仮面』ともいささか似ている。そして残念ながらその不安は適中してしまい、拡げられた風呂敷は畳まれることなくあっけなく終わってしまった。もちろん、物語的に「解決」する必要は必ずしもないのは、異変や異形を提示するだけで終わる諸星大二郎や伊藤潤二を引き合いに出すまでもなくわかっている。やっぱり救いはありませんでした、で終わるのもいいだろう。しかし、彼らの諸作とこの作品の違いは、二人の少年少女の精神の彷徨が重要な位置を占めていることで、それにはどこかで落とし前をつけてもらいたいとぞ思う。最後の台詞は「世界はどのようにでも存在することができる。そうだ、僕らも‥‥想像できるはずだ、未来を‥‥」ということだが、これは翻訳すれば「世界は想像次第でどうにでもなるんだから、あとは読者が好きに想像してくれ」とも読めてしまう。これはやはり違うのではないか。『バタアシ金魚』に始まる刮目すべき望月作品の中の人物たちは、次の瞬間何をやり出すかわからないという、因果律から自由であるところがよさだったわけで、大局的には絶妙なタイミングで押しては引き引いては押す古典的ドラマトゥルギーのうねりに乗っかった上で、細部においては瞬間瞬間が意外性/スリルを孕んだディテールを味わう、というのが望月マンガの正しい享受の仕方だろうが、『ドラゴンヘッド』も細部の意外性は常に保ちつつも、大局的な次元においては収拾をつけ損なってしまった。「畏怖」の感情を描き出すことだけが主眼ならば、それは成功していると言っていいが、それに付随する(というか最初からこっちの方が主眼か)テルと瀬戸さんの心情、という肥大しすぎてしまった要素の落とし前がうまくつけれなくなってしまった。とはいえまだまだその才能自体を疑ってはいないので次作に期待。
(2)天然コケッコー(くらもちふさこ、1995〜2001)
「少女マンガ的」な物語を30年にもわたって書き続けるということは、物語のレベルではある程度似通ったシチュエーションを描き続けるということにもなり、実際大まかにいってくらもちふさこの場合もそうだった。別冊マーガレットというホームグラウンドがそれを要請したのだろう。しかしそれでもモチベーションを持って書き続けられるというのは、本人も語っているように関心の中心が実は主題ではなくスタイルの方にあったために違いない。主題において少女マンガから離れることが許されないのならば、語り方において徹底的に遊んでやろう、という姿勢が彼女の絶えざる革新を生んだ。実際、くらもちふさこの作品は至るところ創意工夫に満ちているが、それを可能にしたのが彼女の超一流の技術とセンスであったことはいうまでもない。そして実験がハズしてコンセプト倒れになったこともこれまでに一度もないのだ。実験性とエンターテインメントを完璧に両立させる離れ業は可能なのだということを、人はくらもちふさこを通して理解する。本当は最初期からもう一度くらもち作品を全部読み返してから総論を語りたかったのだが、とてもその余裕がないので、ここでは最新作(にして最長編)の『天然コケッコー』を中心に書く。この作品はいくつかの点でこれまでのくらもち作品とは大きく異なっている。舞台が田舎で言葉が方言という特色は誰でもわかるが、これまでのくらもち作品の多くのパターンは、純粋で内気な女の子が、学校の先生とか新しい父の連れ子の義兄とかを異性として意識して、その憧れがさあどうなる、どうなる、というシチュエーションを軸に展開していったのに対し、この『天然コケッコー』では、田舎に越してきた男の子(大沢)と主人公(そよ)は早々とつきあい始めてしまうわけで、ここにおいて既に通常の物語を推進させる原理は無効になっている。しょっちゅう手をつなぎキスを交わすカップルの主人公などくらもち作品で目撃したことはなかった。こうして、「はたして二人は結ばれるのか」という物語の推進原理を離れた無重力空間で、田舎で展開する個々のエピソードの中に人はトリップし、そこで緩やかに過ぎてゆく田舎の時間に身を委ねることになる(その代わり「いつえっちするのか」という新たなテーマが現れるが、それとてこの作品の中の一エピソードに過ぎず、それが推進原理になることはない。それが証拠に、二人はついにデキないまま物語は終わり、だからといってどうってこともない。それが「いつ結ばれるのか」が推進原理だった『めぞん一刻』と違うところ)。むしろ従来のくらもち型主人公にふさわしいのはマンガ家志望のあっちゃんで、彼女は通常のくらもち型主人公の条件をすべて満たしている。いわば、普通ならあっちゃんが主役でそよやその他はみな脇役になるはずだったところを、主客をあえて転倒させて描いてみた、のが本作だといえよう。あっちゃんといえば、彼女の描く「つたない」(「つたなさ」までもが完璧にコントロールされている!)マンガの人物のコマが、「現実」のあっちゃんと憧れの彼のシーンに挿入され心情をシンクロさせてゆくあたりは恐るべき過激な実験でありながらかつ見事に成功している。こういう奇跡を前に、人は茫然自失する以外に何ができるというのか。スタイルの実験ということでいうなら、他に、そよと大沢君が散歩しながら会話してゆくシーンで、延々と四角い均一なコマ割りが何ページにもわたって続き、やがて二人が顔を接近させ唇が触れ合う一瞬、二人のコマとコマの間の縦の分割線が消え去る演出なども秀逸だ(実際読まないと何のことかわからないと思うけど)。他にもこうした卓越した創意工夫はいくらでもあるがきりがないのでこの辺で。包括的にいって、どのエピソードも泡のように浮かんでは消え、どれか一つが突出することはない。そよの父親と大沢君の母親の何かあったらしい過去も、匂わされるだけで「解明」されてどうなるということもないのだ。われわれの現実においても、「懐かしさ」という衣を纏った思い出というものは、元をたどればとりとめのない断片的なエピソードの連鎖が年月を経て発酵して醸成されるものに違いなかろう。
1996
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