作曲家・鈴木治行のコラム

今月の1曲
松平頼則/舞楽(1961)
半年という期間限定で続けてきた50〜60年代の日本人作品のシリーズもこれで最終回。シメはやはりこの方にご登場頂き、そして微力ながらも松平頼則作品の傑作の数々の本格的CD化の気運上昇に貢献できたらとぞ思う。とにかくLP時代から現在に至るまで、松平頼則作品の録音はみすぼらしいまでに少ないままできた。確かに松平頼則は知られざる存在ではないが、とてもとてもその作品に比してコンサートでよく取り上げられたり録音が出されたりしているとは言えまい。やはりこの国の音楽業界には昔から、政治的に器用かまたは権威好きの先生に忠実なアカデミシャンでないと滅多なことでは評価されない悪しき伝統が生き続けているらしい。作品の質は関係ない。誰も音楽なぞ聞いてはいないのだ。それは松平氏のことだけでなく、音楽ジャーナリズムにおいて今日本でどういう作曲家がいいということになっているかを考えてみればよく分かるというものだ。裸の王様がいとも簡単に成立してしまう土壌がそこにはある。この驚くべき意識の低さ。おっと、書いてるうちに腹が立ってきてついここまでスペースを割いてしまった、まずいまずい、話を戻さねば。
さて、この一管編成の「舞楽」においては、松平頼則は既にして現在の松平頼則を確立している。思うに50年代後半以降は基本的に彼のスタイルは殆ど変わっていない。冒頭に息の長いフルートの装飾的なフレーズが悠久の時を告げ、やがてそこに他の楽器がヘテロフォニックに追い吹きで入ってくる。打楽器が、緩やかに回転する巨大な車輪のように巡り来たりて儀式的な時を刻む。

今月の1枚
サディスティック・ミカ・バンド/ホット・メニュー(1975)
70年代の日本のロック・シーンにおいて決して抜かすことのできない重要な存在であるミカ・バンドの代表作は、一般的には前年の「黒船」ということになっている。確かに「黒船」も悪くないが、多大な時間をかけて作り込み過ぎた観のある「黒船」よりも、各メンバーが気負わずに好きにやっちゃった結果できてしまった本作こそミカ・バンドの最高傑作だと言いたい。丁度「アビー・ロード」に対しての「ホワイト・アルバム」のように。ロックのアルバムには、徹底的に作り込んでこそ良くなるタイプと、気合い一発でやってしまう方が良くなるタイプの2つがある。前者に当たるのが例えばプリンスやスクリッティ・ポリッティだとすれば、後者は例えばジャニス・ジョプリンやヴァン・モリソンあたりになろうか。その理由は明らかだと思うのでここではいちいち言わない。ともかく話を戻すが、この頃のミカ・バンドのメンバーは凄かった。加藤和彦にせよ高橋幸宏にせよ後藤次利にせよ高中正義にせよ小原礼にせよ、その後の日本ロックを背負う人材が結集していたのだ。

今月の展覧会
ルイーズ・ブルジョワ(〜1月15日、横浜美術館)
己の内面の奥の小部屋を外に向けて痛い程にさらけ出してゆくタイプの作家にはなぜか女性が多いような気がしていたのだが、ブルジョワもそういうタイプの一人であろう。自らの精神療法として制作を続けずにいられない、オブセッションに駆られた表現者という意味で草間弥生を思い出させる。ブルジョワの場合は、10代の頃に自分の面倒を見てくれていた家庭教師が実は父の愛人でもあったことを知ってしまったというトラウマがその後の人生を支配してきた。しかし勿論、ただ自分の内面を見せるだけでは、そんなものは他者にとっては何ほどのものでもないのであって、草間弥生もブルジョワも一旦それを対象化、距離化する冷徹な作業を経る事に成功しているからこそ他者が目を向ける意味があるというものだ。初期のブランクーシ的な立体作品からやがて肉体を抽象化したおぞましくもなまめかしい作風へと展開してゆく。近年の、見る者が内部を覗く部屋型の作品はむしろ見せ方としてはいかにも過ぎる気もするのだが。

今月の2本
(1)アンティゴネー(1991フランス=エジプト、ジャン・マリー・ストローブ&ダニエル・ユイレ共同監督)
ストローブ&ユイレのシェーンベルクへの愛着。「モーゼとアロン」に続いて昨年もオペラ「今日から明日へ」を映画化したし、遡ればシェーンベルクが架空の映画のために書いた「ある映画のための伴奏音楽」を元に映画を1本撮ってしまった過去もある。この「アンティゴネー」ではツィンマーマンの「ユビュ王の夜会のための音楽」が用いられているが、ストローブ&ユイレの作品における音楽の出現は常に意表を突いており、しかも、映像の雰囲気をいささかも強化しないという点において通常の映画音楽の役割を全く果たしていない。前記の3本におけるシェーンベルクや「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」におけるバッハの音楽は、脇役どころか映画の中心そのものといえる。彼の多くの作品における、カメラに映し出される「現在」と、語られる「非・現在」の照応関係が、そのままこれらの映画では延々と写し出される演奏者と音楽の関係になっているのだ。なぜバッハのかつらをかぶっただけのレオンハルトの演奏する姿に延々とカメラが向けられていたのか、今にして分かる。現在、お茶の水はアテネ・フランセにて「ストローブ&ユイレ映画祭」という常軌を逸した催しが12月13日まで開かれている。こんな催しは日本では永久にないと誰もが確信していたはずなのに。
(2)薔薇の王国(1985ドイツ、ウェルナー・シュレーター監督)
「自然さ」などに何の関心もないシュレーターのことを思う時、そのマニエリスムの徹底ぶりという点において西のシュレーター東の鈴木清順とつい掛け声を掛けたくたくなる。もっとも清順にはシュレーターに色濃い表現主義的風土は全くないのだが。この「薔薇の王国」における薔薇の赤と体に塗りたくられるタールの黒、人工的な逆光、アリアとディスコ風音楽の対照、火と水の対比、ホモセクシュアルの匂い、それらすべてが相俟って見る者を夢とも現ともつかぬ眩暈の体験へと誘ってゆく。鮮血の滴る傷口に真紅の薔薇の小枝が「接ぎ木」されてゆく。ただのグロなら興味はないが、その眩暈のコントロールの手つきに感じられる確固たる世界観としたたかさはシュレーターの作家としての大きさを物語っている。現代ドイツでもっとも前衛的かつ大胆な映画作家の一人。

今月のマンガ
コジコジ(1995〜1997、さくらももこ)
「無意味」ということに対するさくらももこの興味は最初からあったように思うが、それがいわゆる「不条理マンガ」として発現しなかったのは喜ばしい。それは彼女の役割ではないはずだからだ。この「コジコジ」における主人公コジコジの無意味さは、それが周囲の仲間達とのコミュニケーションが成り立つか立たぬかのぎりぎりのところで危うい均衡を保ちつつ為されていることでかえって際立たせられている。コジコジをどこかで見たような気がしてならなかったが、そう、コジコジこそ天才バカボンのパパの生まれ変わりに他なるまい。口に出しこそしないがコジコジもまた、「これでいいのだ」という絶対的肯定性にのみ生きる純粋な存在である。個人的には1巻の途中あたりで垣間見られたさくらももこの破綻ぶりが更に加速されてゆくことを期待していたのだが。




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