NETSCAPE 2.0以上に対応のページです。それ以下のヴァージョンでは殺伐と見えるかも知れません。 【音ヲ遊ブ】6月の鈴木治行の全て
作曲家・鈴木治行のコラム

今月の1曲
カルロ・ジュズアルド/太陽は明るく輝き(16世紀)
あらゆる言葉という言葉を無効にしてしまう体験。それはこのような音楽と不意打ちのように遭遇してしまうことのできた幸運な者にのみ許された特権である。従って、これは予め無効であることを承知の上で書かねばならない哀れな文章なのだ。我々は、突然投げつけられた石つぶてにうろたえるように、このマドリガルにうろたえる。三和音がこんなにも透明であったことにうろたえる。人間の声が、ここまで純粋さという概念に等価な存在たりえることを目のあたりにしてうろたえる。

今月の2枚
(1)ボブ・ディラン/欲望(1976)
ここには、70年代アメリカ、としか言いようのない何かが生々しく息づいている。それは70年代のアメリカ映画(それをアメリカン・ニュー・シネマなどとは呼びたくない)の中でかつて我々が確かに呼吸し、体験を共有した何かと通底している。ソロ・ヴァイオリンの導入がこのアルバムの成功を決定づけた。「モザンビーク」のような曲を聴く時、例えばブリティッシュ・ロックにはあり得ないカントリー、フォークの色濃い血をロックに融合、消化したディランの肖像が垣間見える。
(2)スティーヴ・レイシー&マル・ウォルドロン/スネイク・アウト(1981)
レイシーと組んだウォルドロンはこんな音楽をやってしまうのだ。初めて聴いた時は驚いた。全体的にはレイシー色が強いが、ここで聴かれる音楽は「森と動物園」の頃のようなフリー・ジャズではなく、かといってスタンダードでもない前代未聞のものになっている。どの曲も、半音階的に不断に上行、あるいは下行しつつずれてゆく、いささかシステマティックな趣すらあるフレーズを基本としてできている。それにしても、レイシーがこんなことをやるのは分かるとして、あのウォルドロンすらがそれにここまで付き合ってしまうとは。

今月の公演
江村夏樹プレイズ平石博一(6月28日、アコスタディオ)
70年代には寡作の人であった平石博一も、20年の歳月がたちいつの間にか多作の人となった。今回のこのコンサートは3回シリーズの最終回だが、何よりも感動的なのは、作曲者が「たった今自分は20才位の時と同じことをしている、という思いにかられ」、50代にも手が届こうという現在、20才近く年下の音楽家らと一緒にこのような手弁当スタジオライヴを実現してしまうという、その精神の自由さ、フットワークの軽さに他ならぬ。こんな若々しい動き方のできるベテランは他にいまい。

今月の展覧会
抽象表現主義−アメリカ現代絵画の黄金期(6月6日〜7月14日、池袋セゾン美術館)
どういう訳か、抽象表現主義の作品というのは昔から日本では滅多に見られないものと相場が決まっていて、それでも比較的やや見られるのはサム・フランシス、ついでポロックが時々、という悲惨な有り様だった。ニューマンもスティルもマザーウェルもガストンもホフマンもラインハートもずっと欠落したままだった。日本の美術界がフォルマリズムを通過しなかったのも無理はない、何しろ美術のモダニズムを理解する機会が奪われてきたのだから。今頃になって浅田彰が啓蒙的にグリーンバーグを顕揚する意味はそこにある。先頃のロスコ展に続いてのこの展覧会を機に日本でも抽象表現主義の絵画が事実上「解禁」されるのを期待する。

今月の2本
(1)砂丘(1970イタリア、ミケランジェロ・アントニオーニ監督)
アントニオーニについては複雑な思いを抱いてしまう。その実存主義的ヴィジョンが古臭いとも言えるし、例えば「欲望」の見えない球でするテニスなど、ベルイマンの針のない時計と一体どれ程違うというのか。そしてその視点で見ればこの「砂丘」にも同じような批判はできるのだが、にしてもこれ程、ここまで時代の空気をもろに呼吸しフィルムに定着し得たことはやはり凄いのではないか。更にピンク・フロイドの「サイケデリック」な音楽が時代性の生け捕りに貢献しているし。6/1〜6/7、池袋シネマ・セレサにて「欲望」と2本立て上映。
(2)簪(かんざし)(1941松竹大船、清水宏監督)
以後、日本映画については国名ではなく会社名を記すことにする。さて清水宏だが、これ程の才能がなぜ近年までほとんど忘れられていたのだろう。最近ヴィデオも出始めてるようだしあちこちから清水宏発見の驚嘆する声が聞こえてきつつあるので、時代は清水に向かっていることだけは間違いあるまい。そう遠くない将来に一大清水宏ブームが来そうな予感がする。この映画での各キャラクターの性格づけのクリアさはどうだろう。何かと腹を立てる斎藤達雄や、逆に気が弱く何かと謝ってしまう日守新一はケッサク。そしてちりばめられた個々のギャグをおおらかに包みこむ春の陽射しのような叙情性。この叙情の資質こそ清水宏なのだ。

今月のマンガ
エンド・オブ・ザ・ワールド(1994、岡崎京子)
こんなことがあっていいのか。我々は今、同時代の最も貴重な表現者の一人を失うかもしれぬ危険に晒されている。岡崎京子は5月下旬に酒酔い運転の車に撥ねられ、現在意識不明の重体である。同世代に岡崎京子のような人がいることが、自分の創作を続けてゆく上でどんなに支えになってきたことか。実はそれ程までの思いに駆り立ててくれる存在は残念なことにそう多くはない。1989年の「pink」はまさに衝撃的だった。それまでの作品もほとんどは読んでいたのだが、「pink」はそれまでの作品とはあらゆる意味で一線を画していた。この時、真の同時代の作家が誕生したのだ。そしてそれ以降の岡崎京子の瞠目すべき歩みについては改めて語るまでもあるまい。頻出するあっけないゴダール的「死」の数々。無意味な死と無意味な生を越えて逆照射されるのはむしろ人間の尊厳についての感情なのだ。それが故に今回の事態は一層悲しい。我々は既に去年ダムタイプの古橋悌二という比類なき才能をエイズで失っている。タイトル通り「世界の終わり」は近いのだろうか。岡崎京子を我々の側に何としても奪い返さなければならない。




[4月の鈴木治行のすべて]
[5月の鈴木治行のすべて]

[今月の鈴木治行のすべて]

[鈴木治行の索引のすべて]





(c)1996 Haruyuki Suzuki