今月の1曲
今月の1枚
今月の講演
今月の2本
エドガー・ヴァレーズ/オクタンドル(1923)
ヴァレーズの音楽では、一つ一つの事象が生命を持った生き物のように跳ね、身をよじり、そこかしこに明確な存在の軌跡を刻印してゆくのではあるが、それらの運動は結局どこにも進むべき方向性を持つことはなく、結果として静的な様相を呈する。スタティックなのにダイナミック、各楽器は、時としてかなり苦しい音域においてその存在を主張し、それによって強度の表現性を獲得する。この行き方は、おそらく当時としても画期的なものであったはずだし、音的には全然違うけれど後のクセナキスの表現性へのアプローチの仕方に通ずるものがある。この曲は、打楽器がないせいかヴァレーズの作品の中ではややメロディの比重が大きいように思うが、メロディといってもロマン派的なそれを想像してはいけないのはいうまでもない。非常に強拍観念的な音楽であり、同じ素材が激しい強弱の変化を伴いつつ生命体のように伸び縮みしながら執拗に反復されて立ち現れる。メロディの線は2度や7度、9度を中心としているが、第3部で出てくるファゴットの線だけはいやにディアトニックで耳に残るなあ。
ミシェル・ポルタル/Turbulance(1987)
同じ年の「Men's Land」がジャック・ディジョネット色がやや勝った仕上がりを見せているのに対し、こちらの「Turbulance」はもはや何にも似ていないポルタル独自の世界で貫かれている。だが、どちらにも共通していえるのは、演奏者達のレベルのおそるべき質の高さだ。完璧に決定されているであろう箇所と、アドリブであるだろう箇所とが抜群のセンスの良さと完璧なコントロールによって見事に溶け合わされ、迷いのない完璧なリアリゼイションによって徹頭徹尾、「こうでなくてはならぬ」(ベートーヴェン?)不可逆性を生きている。ジャンルを越えて極めて質の高い音楽を繰り出し続けるミシェル・ポルタルはただ者ではない。ちなみに、あらゆる一流の音楽には(音楽以外でもだが)、偶然性や即興性に関わりなく必ずこういった「不可逆的」な色合いというものが備わっている。
(Michel Portal/Turbulance - Harmonia Mundi/HMC 905186)
ワルター・ツィンマーマン(3月23日、JMLセミナー/tel:03-3323-0646)
日本にもしばしば海外からいろんな作曲家が訪れてレクチャーやコンサートをやってゆくことはあるのだが、その中で真に聞くに値するものとなるとそうはありはしない。僕が去年ドイツを訪れた時に最も会いたかったのが、ハイナー・ゲッペルスとワルター・ツィンマーマンの2人に外ならなかった。その内、ゲッペルスには会えたが、ツィンマーマンはベルリンの連絡先が分かっただけでとりあえず会いに行くのは断念せざるを得なかった。次回の渡独を満を持して待っていたところ、よもや日本に来ることはあるまいと思っていたツィンマーマンがいきなり嘘のようなあっけらかんさで来日することになってしまい、驚いている。日本にこういう人が呼ばれる場がないことは、今回の来日が個人的なものであるらしいこと、そのキャリアに反してチラシに「若手」と書かれてしまう位知名度が低いことからも分かる。その今日までの不当な無視状態は、誰かが言うようにツィンマーマンの作品が「難しい哲学的、形而上学的」なものであるからでも「音のセンスがあまり感じられない」からでも断じてなく、単にドイツのアカデミックな前衛に対して本人が全く身を寄せていないという理由からに過ぎない。それだからこそ貴重なのだが。
(1)時を数えて、砂漠に立つ(1985アメリカ、ジョナス・メカス監督)
その作品の殆どすべてが私的映画日記と呼びうるメカスであるが、この作品は、1964年から1968年までを撮った「ウォルデン」の続きとして1969年から1984年までをカヴァーしている。本人は私生活と関わりの薄い部分を選んだ、と語っているのだが、ジョン・レノン、ウォーホール、ギンズバーグ、パイク、ロバート・フランクその他の数多くの友人達が次から次へと登場しさり気なく手持ちのカメラに収められてゆくのを見続けてゆく中から、結果的にメカス自身の私的交友関係、ひいては時代の刻印を押されたニューヨークの空気までもが浮かび上がってくる。通常の劇映画を見慣れた目には、全くサービス精神ゼロの、私的スナップがめまぐるしく、盛り上がりも何もなくただ延々と垂れ流され続ける個人的な、あまりに個人的な映画に見えるかもしれない。その寸描された時間の膨大な堆積が、ある日地震か何かで不意に地上に現れ出た、何億年という時間が封じ込められた地層の断面のように、見る者の前に聳え立つ。恵比寿の東京都写真美術館にて3月23日に上映。また、3月30日まで毎土、日曜日に、様々なプログラムでメカスの作品が上映されている。
(2)雪の断章−情熱−(1985東宝、相米慎二監督)
日本映画において、とりあえず70年代を神代辰巳、90年代を北野武に代表させるなら、80年代はやはり相米慎二の時代というしかあるまい。それ程に相米慎二の作品群は突出していた。この「雪の断章」の冒頭、10年の年月の経過を描いているのにもかかわらず長回しの1カット、という極めて大胆かつ野心的な演出にまず不意打ちを食らう。そして別段ファンでも何でもないのに一度見たら忘れられない斎藤由貴の翳りを帯びた表情のすばらしさ。全編を覆うやるせない翳りの空気は、スタッフ内での事前の参考試写で成瀬巳喜男の「乱れる」を見せた、というエピソードを聞くに至って十全に意識的なものであったことが明らかとなる。「乱れる」全編を貫く憂いの空気が、確かにここにも息づいているのだ。しかし今成瀬の話に立ち入るとまた感動して止まらなくなるので、やめておこう。ところで、この映画(「雪の断章」)に出てくる屋台がフォーレをかけてるんだけど、そんな屋台あるか?それも、よりによってあの晩年の渋い傑作、バイオリン・ソナタの第2番だなんて。でももしかしたら「翳り」というキーワードでつながっているのかも。
1996
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