NETSCAPE 2.0以上に対応のページです。それ以下のヴァージョンでは殺伐と見えるかも知れません。 【音ヲ遊ブ】7月の鈴木治行のすべて
作曲家・鈴木治行のコラム

今月の1曲
ヤニス・クセナキス/アナクトリア(1969)
クセナキスといえば、なぜか、60年代から70年代にかけての絶頂期の傑作群が未だにかなりCD化されていず、CD世代はクセナキスの本当の凄さを知らないのではないか、という疑念を抱いている。それらの音楽は半端でなく凄すぎるので、レコード会社は人心を乱さぬように封印することを決意し、代わりに多くの、そこそこ悪くない程度の作品ばかりCD化してその真価が世に広まらぬように調整しているのに違いない。この「アナクトリア」も1枚CDが出てはいるものの、如何せん演奏が悪い。それらの作品を聴けば、クセナキスが従来思われていたような「数理的=知的」な作曲家である以上に極めて「野蛮」な存在であることが理解され、「アホリプシス」のような、いわゆる「推計学的音楽」の理念を解析するのに最も適したサンプルであるに過ぎない失敗作でクセナキスが語られてしまうという不毛な事態にも陥らずにすもうというものなのだが。

今月の1枚
エラ・フィッツジェラルド/At The Opera House(1957)
黒人のジャズ・ヴォーカリストとして、そのダイナミズムと舌を巻くうまさでサラ・ヴォーンが挙がるとすれば、一方、生来の声の豊かさ、その表情の繊細さにおいてこのフィッツジェラルドを挙げねばなるまい。あまり安易に音楽の特徴を人種や民族性に結びつけるのは危険だが、彼女らの声を聴くとやはり根本的に声帯の仕組みが白人とは違うとしか思えない。白人であるアニタ・オデイが声量のなさを抜群のジャズセンスでやっとカヴァーしたようなことを初めから越えた地点から出発することができたこの希有の存在も、先頃ついに世を去った。合掌。

今月の展覧会
(1)赤崎みま(〜7月20日、吉祥寺・ギャラリーαm)
今回のこれはまだ見てないので分からぬが、今までの赤崎みまの作品として思い浮かべるものといえば、その正体も大きさも定かではないゼリー状の物体が赤を基調としたカラフルな色合いで正面から写されている、といった体のものだった。それがこちらを引きつけるとすれば、それは、「そこに写っているものは確かに実在していた」という思いに人を誘うからであり、これこそは写真(と映画)のみが持ち得る最大の魅力にほかならない。写っている物体の存在の事実を確信しながらも、それが何かは分からないというジレンマに身を裂かれつつ悶えて下さい。
(2)清水俊臣(〜7月6日、四谷三丁目・mole)
(今回は写真展ばかりになってしまった)。極小の音が人の耳をそばだてさせ、限りなく繊細にさせるように、夜の闇の淡い光の中で捉えられた様々な自然の、あるいは人工の対象物たちは、我々の見つめるまなざしを限りなき繊細さへといざなってゆく。しかも驚くべきは、どんなに暗く光を絞っていても対象は異様な程くっきりと明確に、これ以上ない位に絶妙のピントでフィルムに定着されているということだ。魔術のような照明のコントロールの冴え。

今月の2本
(1)夜霧の恋人たち(1968フランス、フランソワ・トリュフォー監督)
トリュフォーを取り上げるのはもっと先になるだろうと漠然と思っていたのだが、六本木シネヴィヴァンで彼のアントワーヌ・ドワネルものが立て続けに上映されることになってしまったので、今回こうして取り上げざるを得なくなった。パリの街をせかせかと歩き回るジャン・ピエール・レオーのせわしないリズムこそ、紛れもなくトリュフォーのもの。トリュフォー映画の体験とは、こういった映画自体が呼吸するリズムを体で感得することである。「大人は判ってくれない」を別とすれば、ドワネルものの中でおそらく最もすばらしい映画がこれ。
(2)帽子箱を持った少女(1927ロシア、ボリス・バルネット監督)
かつて、ハリウッド映画に対してソ連映画といえば、娯楽性に欠けた国策映画しかないように思われていたものであったが、数年前からのバルネットの日本上陸に伴ってその先入観も崩されつつある。ルビッチやスタージェスにも比肩する奔放で目茶苦茶で、かつ創意に満ちた傑作。主演のアンナ・ステンをロシアのリリアン・ギッシュと呼びたい。

今月の一篇
第四間氷期(1959、安部公房)
日本人離れした乾いた感性による作風で知られるこの作家ではあるが、今思うとそれでも実は結構ロマンティックな実存主義者だったのではないか。文明の行き着いた先の人類の黄昏時のこのイメージは、どこかで見たような気がしていたが、そうだ、諸星大二郎のSFで時々目にしてきた風景に違いない。いずれにせよ安部公房の長編では個人的にこれが一番思い入れのある作品。

今月のマンガ
(1)カモン!恐怖(1993、しりあがり寿)
前衛とアホらしさの微妙な境界線上の綱渡りを今日も続ける作家、それがしりあがり寿。恐怖をネタにしたギャグ、という路線は初期の傑作「呪いは星の数」において既に見られたが、この路線を一冊通して展開したのが本書である。素材とその切り口の隔たりの大きさが表現のダイナミズムを生む、とは言いながら、ふと、笑いと恐怖は紙一重、という誰かのテーゼを思い出しもする。
(2)コロポックル(1990、花輪和一)
当初は並び称せられることも多かったこの花輪クンと丸尾(末広)クンだが、年と共に2人の資質の相違はますます明確になってきている。ある事情で現在の花輪和一の新作が読めない状態にあるのは非常に残念だ。一刻も早い復活を待ち望む。ところで、花輪和一の作品においても、しりあがり寿について述べたような素材とその切り口の隔たりが存在しており、結局この作品は化物譚ともメルヘンとも名付けようがない。既成の引き出しへの分類を徹底的に蹂躙する、一見ほのぼのとしながらも相も変わらず悪意に満ちた、だからこそ刺激的な作品たり得ている。




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