NETSCAPE 2.0以上に対応のページです。それ以下のヴァージョンでは殺伐と見えるかも知れません。 【音ヲ遊ブ】9月の鈴木治行のすべて
作曲家・鈴木治行のコラム

今月の2曲
(1)ホセ・エヴァンジェリスタ/生命を閉じる(1983)
スペイン生まれながら、その長きにわたるカナダでの活動によって今やカナダの作曲家として認知されているエヴァンジェリスタは、独特な線的な音楽を書き続ける。メロディの復権?しかし、そこにはいささかも19世紀以前への回帰の意図など含まれてはいない。一本の太い線の周りにまとわりつく装飾の織りなす精緻なテクスチュアが、時に「夜の音楽」的な情緒を醸し出すにしても。タイトルは、同じカナダの線的な作曲家クロード・ヴィヴィエの名前(原題はClos de vie)と彼の死とに掛けられている。
(2)和田弘とマヒナスターズ/お百度こいさん(年代不明)
日本にはムード歌謡と呼ばれもする不思議なジャンルがあり、というよりかつてあったのだが、この、うら声を張り上げるおかまの集団にも思えるある意味では気持ちの悪いグループも、この路線で一時代を築いた存在であった。演歌やムード歌謡などのいかにも湿っぽい音楽において、エレキ・ギターが時としてなまめかしくも艶やかな表情を身にまとう瞬間があって、そのなまめかしさはフレーズの単純さによって損なわれるどころか、むしろ単純でチープであるからこそ生かされたりもする。

今月の2枚
(1)ゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツ/アポロ18(1992)
「彼ら」の音楽はどれもみな短く、一種CM的なスタンスを持つ。つまり、一点のコンセプトを瞬時のうちに明確に言い切る、という点において。そして、そこにおいて「彼ら」の才能はかなりのものだ、と言い得る。その、明確な輪郭を形作っている一つ一つはまちまちの方向を向いた曲が、まさにポップスのおもちゃ箱のように詰まっている、というのが「彼ら」のアルバムであり、その趣はビートルズを基調に、時にボンゾ・ドッグ・バンドであったりフランク・ザッパであったりするという訳だ。
(2)ルー・リード/メタル・マシーン・ミュージック(1975)
「ニューヨーク」や「ベルリン」を評価するロック・ファンでも当時、このアルバムには辟易したであろうことが容易に推測される。その意味でこれはルー・リードの”Revolution No.9”なのかもしれぬ。果てしなく続くノイズの洪水の中にキラキラ輝く鉱物の微粒子が入り混じる。余談だが、かつて、この「メタル・マシーン・ミュージック」とクセナキスの「ペルセポリス」を対等に語ったのは大里俊晴だが、世の殆どの評論家はこのような横断的な視点を欠いているので、仮に「現代音楽」については語れても「音楽の現在」については語ることができない。

今月の展覧会
吉沢美香(9月9日〜10月5日、銀座・ギャラリー・コヤナギ)
吉沢美香の作品が好きか、と聞かれても、そうすぐに好きだと即答できないというジレンマはあるが、その活動の活発さは認める。まず、通常のキャンバスにではなくプラスチックだかセルロイドだかの薄っぺらい板に描く、という選択が伝統的な絵画のアウラを引き剥がす。そしてその上に描かれる勢いを持った即興的な単色の形象は、時として蜂のお尻にも抽象的な回転体にも見えるのだが、吉沢美香にとっての関心は、辰野登恵子がそうであるように視覚的なイリュージョンに向けられているのだろうか。

今月の2本
(1)シクロ(1995仏/香港/ベトナム、トラン・アン・ユン監督)
トラン・アン・ユンの2作目は、第1作の「青いパパイヤの香り」がそうであったように、驚くべき音に対する繊細さに満ちている。2作にわたってコンビを組むトン・タ・ティエの音楽は、聴衆の耳をミクロな繊細さへとそばだてさせる導き手だ。ただ、題材は全く変わって、前作より遥かに暴力的な荒々しさが押し出されているのには意表を突かれた。何しろ見たのがパリだったので、言葉上の問題があって細部がよく把握できなかったのだが、やっと今、渋谷はシネマライズで上映されているので、いずれ見直すことだろう。
(2)不安と魂(1973ドイツ、ライナー・ウェルナー・ファスビンダー監督)
ドイツ映画は、1982年にその最も中心的な担い手であったファスビンダーの夭折によって決定的な痛手を被る。ファスビンダーは、10年と少しの決して長いとはいえないキャリアの中で飽くことなく冷めたメロドラマを矢継ぎ早に撮り続けた。同じドイツ出身のダグラス・サークが、ハリウッドに渡って哀切と湿潤に満ちたメロドラマを撮ったのに対し、ファスビンダーの映画はざらざらした粒子の粗さと即物性の風土に満ちている。

今月の一篇
やし酒飲み(1952ナイジェリア、エイモス・チュツオーラ)
別段アフリカ文学には全く通じていないが、たまたま読んだこの作品はそのおおらかさとイマジネーションの特異性が忘れ難い。そもそも旅を続ける主人公が酔っ払いだし、いろいろ出くわす人物が「膝に目がくっつき後ろ向きに歩く男」だったり、物事の順序が逆で「木に登ってからはしごを掛ける男」だったりする。全体の構成よりも次々に繰り出される奇妙なエピソードの一つ一つにはまるべき作品なのだろう。しかしこれを寓話として読むのは世界を狭めることにしかなるまい。

今月のマンガ
日の出食堂の青春(1980頃、はるき悦巳)
「じゃりん子チエ」の連載開始とほぼ同時期に描かれたという、つまり最初期のこの作品にして、はるき悦巳のスタイルは既に完成されている。結婚してゆくミッちゃんはチエの成長した姿であろうか。かっこ悪い生き方こそがかっこいいのだ、という人生哲学がここでも一貫して全体のトーンを染め上げている。ついでに言うなら、はるき悦巳の描く、うつむく人物の真横のショットはいつでも常に素晴らしい。その異様に前に盛り上がった額に、他のアングルの時には表面の喧騒の陰に隠蔽されている人物の内面が生々しく露呈されているからである。




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