今月の1曲
今月の2枚
今月の2本
今月の一篇
今月のマンガ
ゴードン・ムンマ/Pontpoint(1980)
自ら制作した電気的な変調装置であるサイバーソニック・コンソールを用いたムンマの作品は、どれも音色上の共通する強い特徴を備えている。この装置による、いささかひずんだ、高次倍音を多く含んだ変調の音色は、代入される生楽器本来の音色の違いをも凌駕してしまうほどにあくの強いものだ。この作品では代入される楽器はバンドネオンとpsalteryという古代の弦楽器であるが、例に洩れずサイバーソニック・コンソールに音源を提供する僕より上に位置するものではない。昨今のコンピューター音楽の発達によって人が楽に手にできるようになった音色のパレットの多彩さに比べ、ここでの音色のパレットは驚くほどに貧しい。しかし、この不自由な貧しさの中にこそ、ものを作ることの苦汁と悦楽が潜んでいるように思う。
(Gordon Mumma/Mesa/Pontpoint/FWYYN (LP) - Lovely Music VR1092)
(1)T.レックス/Futuristic Dragon(1976)
マーク・ボランほど徹底的に空虚な華麗さに殉じた者もそうはいるまい。その、およそ深みだの内面の真実だのとはほど遠い、ゴテゴテ、ギラギラしたしつこいまでの電飾サウンド、そしてまた、響きだけでなくそのどこまでもあっけらかんと表層を滑り続ける単純なポップさは、やがて、宴のあとの静寂の、闇の深さを浮き彫りにするだろう。マーク・ボランのヴォーカルもまた、生来の電飾サウンド的資質を備えている。エフェクターも何もかけずとも、ボランの声の質は既にしてエレキ・ギターとの近親性を示しており、ここにおいてT.レックスの音楽はフォルムとマテリーの一致を見る。
(T.Rex/Futuristic Dragon - EMI BLN5004)
(2)エリオット・シャープ/Hammer, Anvil, Stirrup(1989)
このCDにはシャープの弦楽四重奏曲ばかりが収められている。どんな編成で作ろうが必ず見紛うかたなきシャープ・サウンドになってしまうところは凄い。エリオット・シャープとは基本的には音圧の音楽家であり、日頃もっと編成の大きい自分のアンサンブル、カーボンで展開しているノイズの強烈な表現性を、ここではソルジャーSQとのおそらく親密であったであろう共同作業によって獲得している。シャープ本人には10年以上前に六本木で偶然紹介されたことがあったが、当時はまだ彼の音楽を聞いてなかった。今会ったら聞きたいことがいろいろあるのだが。
(Elliott Sharp/Soldier String Quartet - SST CD232)
(1)スワンプ・ウォーター(1941アメリカ、ジャン・ルノワール監督)
アメリカ時代のルノワール!「ゲームの法則」(1939)を最後にハリウッドに渡ったルノワールは50年代ハリウッド映画を予見した陰鬱な「浜辺の女」(1946)まで6本の映画をハリウッドに残す。この映画はそのハリウッドのルノワール第1作。本来ならば、ルノワールとハリウッドほど相性の悪そうな2者もなさそうなのに、あろうことかルノワールは全く自分の世界を曲げることなく己の作風とハリウッドの要請とを共存させたこの様な傑作を撮り上げてしまった。スペインから亡命したブニュエルが結局1本の映画も撮ることなく、ハリウッドに早々に見切りをつけてメキシコへ旅立っていったことを思う時、このルノワールの身の振り方とその成果はにわかには信じ難い。さて、内容に触れる余裕がなくなってしまったが、来年2月頭まで京橋フィルムセンターにてルノワールの全作品上映という異常な企てが現在進行中であることを最後に付言しておこう。
(2)色情めす市場(1974日活、田中登監督)
同じく実存主義的風土に骨の髄まで浸りながら、神代辰巳と田中登に現れる方向性の違いには興味が尽きない。神代の「しらけ」と田中の「熱血」と言ってしまえば話は簡単だが、むしろ「熱く白ける」のが田中登という作家なのかもしれない。その「熱く白ける」作家・田中登が撮った集中の傑作がこの「色情めす市場」と「女郎責め地獄」の2本である。釜ヶ崎を舞台にした映画としては勿論人は大島渚の「太陽の墓場」を思い浮かべる訳だが、この田中作品ほどに存在の、徹底的なまでの虚無をザラザラした質感と共に画面に導入し得てはいなかった。そして、虚無のシンボルとしての通天閣。90年代における通天閣の作家といえば阪本順治ということになるのだろうか。
夜間飛行(1931フランス、サン=テグジュペリ)
10数年ぶりに読み返してみるとやっぱり面白かったのだが、小説の主軸が空で遭難するファビアンにではなく、地上で任務の遂行にこだわるリヴィエールに置かれているところが、この作品の重要なポイントであるだろう。もちろんファビアンが暗闇を抜けどんどん上昇してゆき、雲の上の光に満ちた静寂の世界へと至る下りは感動的といえるが(「よだかの星」?)、作品全体の焦点はむしろリヴィエールの倫理性へと向けられている。ここに、自らもパイロットであった作家の、飛ぶことと書くこととの間の倫理意識を見ることもできよう。ところで、ダルラピッコラの同名のオペラを生で見れる日はいつ来るのだろうか。
霧の扉(1995、永井豪)
まず注。今手にしているこの永井豪の短篇集(中公文庫)自体は去年出たものだが、中に収められている各短篇は1971年から81年の間に書かれたものばかりである。昔の永井豪がいかに才能あったかがよく分かる。永井豪は闇の恐怖をよく知る作家であり、闇の不可視性を媒介にして人間の精神の暗部へと通ずる地下通路を行き来する。「ススムちゃん大ショック」の、豹変した親による子殺しのテーマは「デビルマン」の最終章の冒頭に受け継がれるだろう。そしてまた、いくつもの作品で現れる鬼のテーマ。最初期の傑作「鬼」は言うに及ばず、「邪神戦記」「夜に来た鬼」、後には長編の「手天童子」に至るまで。鬼とは、永井にとって人間存在の反転されたネガであるはず。本当は、一方のギャグ作家としての永井豪についても語らねば片手落ちになるのだが、もうその余裕はない。
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(c)1996 Haruyuki Suzuki