NETSCAPE 2.0以上に対応のページです。それ以下のヴァージョンでは殺伐と見えるかも知れません。 【音ヲ遊ブ】10月の鈴木治行のすべて
作曲家・鈴木治行のコラム

今月の2曲
(1)フェリックス・メンデルスゾーン/弦楽八重奏曲変ホ長調op20(1825)
何も最近メンデルスゾーンの音楽に改めて触れている訳ではないけれど、たまたま耳にしてしまったりすると、いつものことながらその音楽の鮮やかさ、コントラストのくっきりと浮き出た明晰さには感心する。確かに天才肌の作曲家だが、持って生まれた才能を少しずつ切り売りしてゆくだけで生涯をもたせた、という感もなきにしもあらず。僕にとっては、メンデルスゾーンの音楽の鮮やかさは何よりも弦楽器において十全に発揮される、という印象が強い。もちろんピアノの小品やオラトリオ「エリヤ」や瑞々しい歌曲の数々を知らぬ訳ではないが。
(2)イルムフリード・ラダウアー/オケゲムの招魂(1977)
テープと2群のオーケストラのための作品であることは分かっているのだが、それ以上のデータはない。比較的厚い響きのカオスの中に、露骨な形ではないが時折見え隠れするメロディらしきものがオケゲムの引用であるのかもしれぬ。全体的に、調性とカオティックな無調が重層的にないまぜになったりはっきりと分離したりして現れてくる、かなりポリフォニックな音楽。ハルフテルやランズをも連想させるオーケストラの鳴らせ方のうまさはかなりのものだといえる。

今月の1枚
パティ・スミス/Gone Again(1996)
「Wave」から9年振りの前作「Dream Of Life」が全くトーン・ダウンしていなかったことに驚き、更にまた8年振りに出たこの「Gone Again」に彼女の健在ぶりを確認する。次に出るのははたして7年後だろうか。パティ・スミスの音楽は必要なものだけでできている。かつて、彼女の痩せこけた体そのままに、装飾と無縁なその音楽の本性を見事にジャケット写真に、それこそ徹底して表層的に定着し得たメイプルソープも今はない。音のみならずあらゆる要素がシンプルにバランスを保つその表現の在り様は美しい。

今月の公演
大野一雄(10月26,27日、神奈川県民ホール)
もはや齢80を越し、場合によっては90にも手が届こうというのにもかかわらず、今もって信じ難いほどの芸術的若々しさで年下の世代をはるかに凌駕している表現者というのが各ジャンルに点在していて、話を日本に限っても、そこには例えば音楽の松平頼則、写真の植田正治、日本画の片岡球子などの人々が入る訳だが、言うまでもなくダンスの大野一雄もその瞠目すべき表現者の一人に数えられる。西洋のバレエとは異なり、元来大地にしっかりと足をつけ重力を一身に背負う所から出発した舞踏が、大野一雄に至って、別段跳躍する訳でもないというのにその緩慢な動きの中から重力を消去した軽やかさを獲得したのは、殆ど奇跡を見る思いだ。

今月の展覧会
服部冬樹(〜10月12日、高円寺・イル・テンポ)
飯沢耕太郎も言うように、服部冬樹は生きている人体を「死んだもの」へと変換してしまう。見えているものは紛れもなく人の裸体に他ならぬのに、そこには血液の温もりなどは微塵も感じられることはなく、大理石の冷たい彫像が音もなく、停止した無限の時間の中に佇立しているばかりだ。写真は見る者に「それはかつて確かに存在した」という思いを抱かせる、というのはバルトも指摘した通りだが、撮った時点ではそれは生命のある、動いている物であった、という暗黙の前提がある。しかし、服部冬樹は写真の撮られたその時点の対象物からも、生命の痕跡を取り去ってしまう。彼のカメラはあたかも、元々無時間なものを更に無時間であるフィルムの中へ二重に定着させているかのようだ。

今月の2本
(1)沈黙の女(1995フランス、クロード・シャブロル監督)
このところヌーヴェルヴァーグの第一世代の秀作が立て続けに輸入されているのはとにかく喜ばしいことには違いない。ロメールの「夏物語」しかり、今月末公開予定のこの「沈黙の女」しかり、年内には公開されるはずのリヴェットの「パリでかくれんぼ」(この邦題何ンとかなんない?)しかり。特にシャブロルとリヴェットの新作はそれぞれのここ数年の作品群の中でも最高の達成であることは間違いない。シャブロルのブルジョワ憎悪もここに極まれり。惨殺されたブルジョワ一家の居間に、今の今まで一家仲良く観賞していた「ドン・ジョヴァンニ」の音楽のみが聴く者もいないまま朗々と流れ続ける。
(2)拳銃魔(1949アメリカ、ジョゼフ・H・ルイス監督)
昔からハリウッドで繰り返し映画化されてきたボニーとクライドの物語。すぐさま「暗黒街の弾痕」(ラング)、「夜の人々」(レイ)、「ボウイ&キーチ」(アルトマン)、「俺達に明日はない」(ペン)などが思い出されるが、ニコラス・レイ、ラングを別格としても、この「拳銃魔」もB級映画特有の短期間の早撮りによるそっけなさが急き立てられるような悲しみを画面上に定着した映画として記憶される。ラストで警官の銃弾に倒れる主人公の姿は、少年時代につい撃ってみて殺してしまった、あの雛の死骸の姿へと見る者を引き戻さずにはおかない。少年は自分のしたことの重さにおののき泣いたが、長じた彼の死に今、泣く者はいない。

今月のマンガ
透明通信(1985、鈴木翁二)
どこから見てもガロ的な作家といえる鈴木翁二は、非常な寡作家である。その100%手作りの世界は、少しでもスクリーン・トーン等の人工性に介入されたら、繊細なガラス細工のようにたちどころに壊れてしまうだろう。この点はつげ義春、畑中純などとも共通するものがある。逆にいえば、手書きの筆線に敏感である作家のみがスクリーン・トーンを使いこなすことができるのだ、例えばくらもちふさこのように。今宮沢賢治ブームだから言うのではないが、鈴木翁二の世界の純粋さ、懐かしさの感覚は、前から思ってはいたがやはり宮沢賢治の強い影響ぬきには語れまい。




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