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1997
ペル・グドムンセン・ホルムグレン/パッサカリア(1977)
ペル・ネルゴーやアブラムセンのような独自のNew Simplicityの作曲家たちを擁するデンマークには、いま一人の一層独自な忘れてはならぬ作曲家がいる。その人、ホルムグレンは1932年生まれのベテランだが、彼らの音楽に共通する特徴は、確かに響きの層も薄く淡々と進行するシンプルさを備えてはいるものの、そこにアメリカのシンプルな作曲家たちに見られるようなある種の「大雑把さ」が見られないということだ。音楽の随所に、流れを繊細にそよがせる細部の工夫が凝らされている。勿論、アメリカ的な「大雑把さ」、あるいは「大胆さ」があったればこそ20世紀のアメリカ現代美術も重要なムーヴメントたり得、ケージもフェルドマンも存在し得たのであり、その「大雑把さ」を我々は時に愛するのではあるが。さて、この曲では、他のホルングレンの音楽同様、非周期的な反復が重要な役割を果たしている。その反復はテンポやオーケストレーションを微妙に変化させながらぎくしゃくと連なってゆき、その変化が、全体の見通しのよいクリアな音場の中で楽器間の新たな関係性の糸を浮かび上がらせる。いきなり出てくる3和音のメロディにたとえ違和感があったとしても、その違和感すらも、やがて回帰してくる反復の認識のために有効に奉仕していることに気づかされるのだ。
吉増剛造/石狩シーツ(1995)
日本を代表する詩人である吉増剛造が音楽家に転身した訳ではない。これは吉増剛造がかねてより行っている自作の詩の朗読のライヴ録音である。音に対する工夫というのは単なるディレイ、リヴァーヴと、スコット・フレイザーの素朴というも愚かなシンセの演奏だけ。おそらく普通に音楽ファンが「音楽」のつもりで聞いたら「なにこれ」の一言で5秒で止められるであろう事は容易に想像できる。しかし、この吉増剛造の詩の朗読は、本人も全く意図しない地平で既成の「音楽」の枠組みなど軽く破壊しかねない衝撃力を内に秘めている。別段その朗読の発声やシンセの演奏が音楽的な訳では全くない。このような形で言葉が裸形の暴力性を素朴な機材によって剥き出しにされたことが、そしてそれが「音楽」と呼ばれたことがかつてなかったであろう事実、それこそが音楽にとって貴重なのだということさえ押さえておけばよい。
イリナ・イオネスコ(〜2月18日、石川町・パストレイズ横浜PG)
ここ1、2年の間で、日本でイオネスコの写真を見れる機会は間違いなく少しずつ増えてきている。背景のマニエリスティックな設計の的確さは常に驚嘆に値する。しばしばバロック的とも評される彼女だが、同じく「バロック的」で「ヌード」を主な素材とする作家であるウィトキンと比較すると、対象の肉体を強引に苛んで自分の美のイマージュの殿堂の中にイコン化し、押し込めようとするウィトキンに対し、イオネスコは対象である女たちの生身の肉体の存在感を、周到にあつらえられた背景装置によってむしろ増幅し、強化しながら結局は自分の強烈なイマージュの中に溶かし込んでしまうのだ。
(1)ママと娼婦(1973フランス、ジャン・ユスターシュ監督)
パリの街を歩き回ると身に沁みるフランスにおける映画文化の層の厚さは、世にも恐ろしいことに今年で96歳にもなろうというブレッソンを最年長として、77歳になるロメール以下のヌーヴェルヴァーグの作家たち、そしてそれに続くこのユスターシュやドワイヨン、ガレルの世代から更に下のカラックス、デプレシャンに至るまで、全世代にわたって注目すべき作家が引きも切らず存在していることからも分かる。本作は、16年前に自ら世を去ったユスターシュの日本で唯一見ることのできる作品。それにしても、これ程やり場のない重く垂れこめた苦汁の時間の中に見る者を封印してしまう映画がかつてあっただろうか。3時間40分という長尺を耐えてこそ、初めてこの体験が崇高性に転化する瞬間に立ち会うことが許されるのだ。2/11まで池袋ACT-SEIGEI THEATERにて上映中。
(2)ベリッシマ(1951イタリア、ルキノ・ヴィスコンティ監督)
ネオ・リアリズムの只中にあった初期ヴィスコンティの瑞々しい傑作と言いたい。何が凄いといって、娘のオーディションのフィルムに見入るアンナ・マニャーニと娘の寄せ合った顔のクローズアップのシーンに勝るものはない。フィルムの中でトチって大泣きする娘の表情のアップと、平静にそれを見ている同じ娘の端正な表情、そして深刻な厳しい表情のアンナ・マニャーニの対比、更に言えば、そのフィルムを見て爆笑している審査員達の表情、と、人間の表情の諸相がこの上ない豊かさを以てここに一同に会しているではないか。ヴィスコンティの映画にエイゼンシュタインの血筋を感じてしまうという珍しい瞬間。
夢の贈物(1982、ひさうちみちお)
新しいマンガをあまり読んでないもんで、ついつい昔のばかり取り上げてしまう今日この頃。最近のひさうちにはちと疎いのだが、第一作の「ラビリンス」からして既に彼の個性はあまりにも明確であった。アール・ヌーヴォーの強い影響下から出発したひさうちが奥行きを廃した均質な線に固執するのはむしろ当然といえる。しかしここで最も興味深いのは、そういった平板さそのものよりも、平板な筆致で描かれる対象がむしろ平板さから程遠い生々しさに向けられているという事態の方だ。表題作「夢の贈物」において、箱庭の牧場の中に生の牛肉を置いてしまうという感性、そしてそれをクニクニと指で触る時の触覚的ななまめかしさにこそ驚かねばならない。とはいえ、例えばビアズレーやミュシャにおける、もともと立体であるはずの対象が線の平面性に還元されてゆく時の被虐的な官能性を知っていれば、ひさうちのこういった志向も含めて彼がやはりアール・ヌーヴォーの正当な後継者であることが分かるはずだ。ひさうちみちおがMであることは間違いあるまい。
1996
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