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Information
1997
アンデシュ・ヒルボリ/天体の力学(おそらく80年代)
この1954年生まれのスウェーデンの作曲家は、アメリカでフェルドマンに師事したという経歴のせいもあってか、かすれたような繊細な響きの織物を作り出すことにだいぶ心を砕く。だが音楽のなりゆきはフェルドマンのそれとは大きく隔たっているのはいうまでもなく、音の層は時折重厚さを増し、むしろ「ラミフィカシオン」のリゲティのようにクラスター的に絡み合いながら一瞬クライマックスを目指して登りつめたり下降したりもするし、かたや、そういった弦楽器群の目的的、非目的的進行の中に楔のように打ち込まれるウッド・ブロックは、クセナキスの「メタスタシス」の記憶を呼び覚ましもする。
グレイトフル・デッド/Aoxomoxoa(1969)
一昨年、リーダー、ジェリー・ガルシアの死によって約30年の活動を停止したグレイトフル・デッドのライヴをついに見ることが叶わなかったのはいかにも残念だ。アメリカ西海岸を代表するロック・バンドであり、最強のライヴ・バンドと言われた、その真価を直に確かめる機会は今や永遠に失われてしまった。ドゥービー・ブラザーズもCCRもいいが、グレイトフル、デッドほどに土臭さと洗練とが均衡を保って一つの音楽性の中に同居している例はあまりあるまい。この、初期の「Aoxomoxoa」と、例えば後期の「Built To Last」を比べてみても、根本的な音楽性は一貫しており、進化論的な価値観、あるいは、たまには目先を変えて違うことをやろう的なノリとは終始無縁なバンドであったことが分かる。
(Grateful Dead/Aoxomoxoa - Warner Bros. WS-1790-2)
カエターノ・ヴェローゾ(6月30日〜7月4日、ラフォーレミュージアム六本木)
ブラジル音楽というのも恐ろしく裾野の広い独自の世界を切り拓いていて、日本にいながらその音楽地図を自分のものにするのは、とてもじゃないが並大抵のことではない。それには細川修平のように向こうに住みつく位の決意が必要だろう。とてもその地図が見えているとはいえないが、カエターノ・ヴェローゾの音楽が疑いなくある質の高さと豊饒さを備えていることは分かる。ウィリー・コローンやエディ・パルミエリのようにボサノヴァやサンバのリズムで押す、というよりももう少し英米のロック、特にニューヨークの、を連想させてしまうのは、アート・リンゼイやデヴィッド・バーンと彼との音楽上の付き合いのことが頭の隅にあるからであろうか。
ウィリアム・ウェグマン(〜6月23日、新宿・伊勢丹)
先月取り上げたアーウィットもそうだったが、犬好きという点ではこのウェグマンも優るとも劣らない。ただ、ウェグマンは自分の愛犬マン・レイを様々に変身させることによって本来の犬とは別個の存在をそこに作り出してしまう。既に70年代初頭のヴィデオ作品においてマン・レイを中心的に撮っているのを思うと、ウェグマンの犬との付き合いもかなり年期が入っている。おそらくウェグマンにとっては、犬、という生き物の形態や仕種、存在そのものも含めた不思議さがまずあって、そんな不思議な犬という存在を様々な角度から検証してみたい、という根源的な思いが彼をあのような創作に駆り立てたのではないか。現像の過程にではなく、素材そのものに人工的に手を加える一種のコンストラクティッド・フォトだといえよう。
午後の曳航(1963、三島由紀夫)
三島由紀夫の作りもの臭さというのがあって、これは芥川龍之介にもずっと感じていたのだが、音楽でいうとさしずめラヴェルあたりに近い感触だ。限りなく小説そっくりに作られた小説。しかしそれでもここまで見事にそれをやられてしまった暁には、やはりこれはここには何かある、ということで評価せずにはいられない。三島由紀夫の小説はある意味で非常に明快だが、その明快さは、作家のいる位置が掴めないという不透明さに裏打ちされている。この「午後の曳航」に漂う海の男のロマンティシズムには、確かに高校生の時分は疑いを抱かず素直に感動したものだが、今となってはどこまで作者が本気なのか、その辺が妙に引っ掛かる。でも好き。
(1)氾濫(1959大映、増村保造監督)
増村保造について、この限られたスペースで語らねばならないというのは何とも辛い事態だ。「清作の妻」を初めて見た時のぶん殴られるような衝撃は生涯忘れられない。文字通り目がスクリーンに釘づけにされてしまった訳だが、考えてみれば増村映画の僕にとって約10本ある別格の作品との邂逅はいつもそのように暴力的なものだった。この「氾濫」は一応その約10本の中には入らないが、増村のいろいろあるピカレスクものの中でもなかなかの秀作といえよう。そもそも出てくる人間が一人残らずずるく、打算的で欺瞞に満ちており、とにかく救いようがない。とはいえ、映画のテンポ感がいいので今村昌平のようにドロドロと鈍重になることなく、一時も弛緩することなく最後まで見せてしまう。そこにはある清涼感さえ漂っている。悪党ものでは「黒の超特急」や「大悪党」と並ぶ出来だといえる。6月8日〜22日まで、渋谷・UPLINK FACTORYにて増村保造の特集上映あり。
(2)海に出た夏の旅(1980ロシア、セミョーン・アラノヴィッチ監督)
5年前に開かれたレンフィルム祭以降、タルコフスキー以降のロシア映画に恐るべき世界的才能が何人も埋もれていたことが誰の目にも明らかになった。特にソクーロフ、カネフスキー、ゲルマン、アラノヴィッチの突出ぶりは度を越えている。このうちの何人かは日本にもその後たびたび紹介されるようになってきたのは真に喜ばしい。「雪解け」以降、ロシアの様々な芸術領域でそれまで陽の目を見ることのなかった表現者達が西側に紹介されるようになってきた流れは周知の通りだろう。さて、アラノヴィッチだが、数年前に公開された「アイランズ」という日本の北方領土を巡る感動的なドキュメンタリーでも分かるように、彼の本領はドキュメンタリー的な方向にあるようだ。この「海に出た夏の旅」における水の撮り方の新鮮さ。あるいは、たびたび現れる、崖の下で幾重にも舞うウミガラスの俯瞰ショット!惜しくも昨年亡くなったアラノヴィッチの冥福を祈る。
先月少し触れた僕のフェラーリやツィンマーマンその他についての文章は、もうそろそろ発売される「映画芸術」という雑誌に載っているので、興味ある人はどうぞ。
1996
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