作曲家・鈴木治行のコラム

今月の1曲
高橋悠治/フォノジェーヌ(1962)
高橋悠治の事実上の処女作といえる、12楽器と電子音のための音楽。ただし、ライヴ・エレクトロニクスではなく、生楽器は素材としてテープの中に取り込まれている。どうでもいいけど、処女作がNHKの委嘱って一体何だろう。いくら前年にピアニストとしてデビューしているからって、まだ曲のない24歳に作曲を委嘱するか?NHKが、フツー。それはともかく、この曲においては、器楽の部分と電子音の部分ははっきり分離しており、器楽の部分が割とありがちな点描的前衛音楽の響きを持っているのに対し、電子音の方はパルスや持続音が出てきたり、どことなくぼけた味が出ていて既に彼自身の世界が垣間見えている。そこには非常に身体的、即興的テイストが感じられる。そう考えるとずっと後のパソコンを使い出してからの彼につながってくるものもある。クセナキスの影響が独特の形で作曲に現れてくるのにはもう2年ほど待たねばならない。

今月の公演
(1)メレディス・モンク(10月14,15,18,19日−彩の国さいたま芸術劇場、10月22日−グリーンホール相模大野)
メレディス・モンクの音楽を音だけ聞くと、モーダルでミニマル的なところもあるいくぶん素朴な声楽、という辺りに印象が落ち着き易いのではなかろうか。だが、何年か前に「Facing North」を携えて来日した時の舞台を見て、全く印象が変わってしまった。モンクのパフォーマンスは何よりも見なければならない。「Facing North」しか見てはいないが、そこには別段目を奪うような視覚的仕掛けとか派手な舞台美術とかがあったという訳では全くなく、むしろステージ自体は音と同様に非常にシンプルなものだった。だが、音もパフォーマンスも、かなりの修練を経なければ獲得し得ない絶対的な洗練の極みから純化されたぎりぎりのところで搾り出されてきているという感じで、その完璧さに打たれたのと、身体があって初めて声が発せられるという当たり前の事実がこれ以上ない裸形のあり方で生々しく露呈されていた、その、身体と声の表裏一体ぶりこそが感動的であったのだった。今回の新作「Volcano Songs」の舞台ははたしていかに。
(Meredith Monk/Volcano Songs - ECM 1589)
(2)甲斐説宗(10月24日、護国寺・同仁キリスト教会)
1938年の日本には、5人のそれなりに注目すべき作曲家が生まれている。そのうちの2人、甲斐説宗と八村義夫は既に亡く、高橋悠治はああだし、平義久は相変わらずパリで質の高い伝統的な前衛音楽を書き続けているのだろうし、塩見允枝子は、最近ちょっと知らないが、時折コンセプチュアルなパフォーマンスを続けているのだろう。この5人とも完璧にバラバラな方向を向いているというのも面白い。それにしても問題は甲斐説宗である。甲斐説宗を失った穴は未だ誰によっても埋められてはいない。特に晩年の余計なものをどんどん削ぎ落としていった作品の数々は、70年代後半の日本の最も重要な作曲家の一人がここにいることを高らかに(というにはあまりに慎ましく)告げていた。その先には可能性を秘めた未知の扉が開かれていたはずなのだが……。しかるに、未だ死後20年も立とうというのに甲斐説宗は正当に評価されているとはいえず、コンサートや録音の少なさは驚くほどだ。だからこそ、今回のこのコンサートは意味がある。企画、制作を自ら背負う新垣隆氏を全面的に支持する。

今月の2本
どうも今年に入ってから日本映画を取り上げる割合が多くなっているような気がしてしばらく控えようと思っていた矢先、藤田敏八が亡くなり、神代辰巳の特集上映がユーロスペースで催されることになってしまったので、これは今この2人について書くのは僕に課せられた義務としか思えず、あえて今回取り上げることにした次第。2人ともに日活出身であるのは全くの偶然の一致。
(1)バージンブルース(1974日活・藤田敏八監督)
「非行少年・陽の出の叫び」(すごいタイトルだ)以来、日活の青春映画の重要な一翼を担ってきた藤田敏八だが、その作品のどれにもある痛みの感覚がついて回る。それは一言でいえば「挫折してゆく青春」ということにでもなろうか。こうして言葉にしてしまうとダサいが。それまでの日活の青春映画にはこういう苦さの感覚はなかった。競輪選手を夢見ながらついには事故で足を失う「帰らざる日々」の主人公、何となく寄り合ってできた浮き草のようなコミューンの若者たちが現金強奪を計画するが、警察権力に追いつめられ一人また一人と射殺されてゆく「野良猫ロック・ワイルドジャンボ」。「翔べない」人物に代わって、しばしばカメラが最後の最後に空へと上昇してゆく。そして、海。かつてかわぐちかいじが「アクター」で、明らかに藤田敏八をモデルにした映画監督を登場させていたが、かわぐちかいじもまた、この藤田的ロマンティシズムにジンときた一人だったのだろう。
(2)女地獄・森は濡れた(1973日活、神代辰巳監督)
封切り4日目を待たずして上映禁止処分となり、2年前にようやく22年間の封印を解かれるまで誰も見ることの叶わなかった幻のフィルム。どこがそんなにヤバかったのかは各自見てもらうとして(とは言え、今の目からするとこのくらいで上映禁止というのは腑に落ちない)、神代のほぼ全作品がユーロスペースに掛かってしまう(〜11月21日まで)というのは隔世の感がある。昨年のロッテルダム映画祭での大規模な特集上映をはじめ、各地で世界的規模の神代辰巳再評価の気運が高まりつつある。その全く独創的な作品群の森の中に迷い込むのに決まった順路はないが、この「森は濡れた」を含む「濡れた」シリーズはどれを取っても、どこまでも逸脱してゆく表現の強度が圧倒的だし、あるいは「青春の蹉跌」にさめざめと泣き、「悶絶!どんでん返し」に呵呵大笑し、「やくざ観音・情女仁義」で思考停止に陥ってシメる、というのももう一つのあり得べきモデルコースとしていいかもしれない。

今月のマンガ
ラヴァーズ・キス(1996、吉田秋生)
「BANANA FISH」(人はこれすらも少女マンガと呼ぶのだろーか)で息もつかせぬハードボイルドを一気に(とはいえだいぶ年月はかかった)に描き切った吉田秋生は、久々にかつての「カリフォルニア物語」や「櫻の園」の学園ものという古巣へ戻ってきた。絵画にも緻密な構成、伏線の張り方などにも、今や自在の境地に至った者の余裕すら感じられる。同じ場面を異なった人物の視点から改めてなぞり直すことによって、物語を破壊せぬまま多面体的に重層化することに成功している。吉田秋生の才能は昔から疑うべくもなかったが、彼女と少女マンガとの距離を計測するのはいささか厄介な作業だ。吉田秋生が少女マンガの遺産を体得した中から出てきているのは分かるが、「吉祥天女」や「BANANA FISH」に見られるような冷徹なアクションは従来の少女マンガにはなかったものだろう。かと言ってそれは少年マンガのアクションとも全く異なるものだ。今は立ち入らないが、これについても改めて考えてみる価値はある。




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