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1997
松下真一/フレスク・ソノール(1966)
「カンツォーナ・ダ・ソナーレ第1番」(1960)の頃のセリエルな装いは次第に薄れ、松下真一の関心は響きの彫琢へと向かった。時として官能的ともいえるその響きの造形の腕の冴えは見事だが、後の方になると技巧を持て余し、うますぎるが故にかえっていささかデザイン的ともいえる表現になっていったのではないか。そこに失われた深みを取り戻そうとしてか、やがて仏教的な題材へと傾斜して行ったのだった。その頃の代表作といえる「シンフォニア・サンガ」(1974)にしても、しかしやはりデザイン的な観は拭い切れない。いまだ聞けない曲も多いが、今のところそうなる前の60年代後半あたりの音楽が最も興味深い。基本的にはヨーロッパ前衛の語法に拠っているとはいえ、この洗練度まで行けるのはそうよくあることではない、特に彼の世代では。彼よりはるかに聞き劣りする作曲家がいくらでも高く評価されている日本の現状を思えば、松下真一は不当に忘れられている。
スティーヴ・ライヒ/ザ・ケイヴ(9月18〜21日、渋谷・シアター・コクーン)
今月のみならずおそらく今年最も重要な音楽的イヴェントであるのがこの「ザ・ケイヴ」の日本初演である。まだ舞台は目にしていないが、この作品が音楽と映像、舞台表現の新たな可能性を垣間見せてくれる可能性は十分ある。映像(ベリル・コロット)との親密な作業という形もライヒとしては初めてだろうが、そこで扱われる題材がドキュメンタリーであるという点も重要だ。ドキュメンタリーのオペラはオペラの在り方からいって不可能に近いが、映像でならドキュメンタリーと真っ向から向かい合うことができる。題材は「テヒリーム」以来のユダヤ的なもので、インタビューを受けた人々の声の抑揚や発音を元に「ディファレント・トレインズ」以来のサンプリングをも交えた音楽付けがなされている。ドキュメンタリー的に声を取り込んで音楽化し、新たな意味を発生させる行き方は昨年取り上げたオステルタークにも通じるが、これはサンプリングが出てきて初めて浮上してきた新たな表現の可能性だといえよう。
ギルバート&ジョージ(〜9月23日、池袋・セゾン美術館)
ギルバート&ジョージと言えば、つねづね目にするたびに不気味な奴らだと思ってきたが、今回ようやく日本で初めてその不気味さをまとめて浴びれる機会が訪れたことをまずは喜ぼう。さて、彼らは様々な点で不気味だが、まず一つは、非常にポップな作品の仕上がりを見せているくせに、その素材が全く以てポップではないことが不気味である。普通ポップアートであるならば、ハンバーガーなりモンローなりコミックなりの「現代的」素材を持ち込むことが多いが、彼らが持ってくる素材ときたら、体の一部だったり糞尿だったり植物だったりと、別に現代でなくともいつの時代にも、どこにでもあるものだ。巨大なそれらのコラージュを前にした我々は、一体なぜ自分が珍しくもないそれらをことさらに見せられているのか途方に暮れる。同じありふれた物であっても、それが例えばハンバーガーであるならば、そこに「現代」の一象徴を見出すことによって人はそれを見せられている意味を回収できるのに。これは不気味だ。そしてもう一つ、作者2人はなぜしつこく自分の作品の中に登場するのか。ルカス・サマラスのように彼らも自己顕示欲の塊なのだろうか。彼らの自作への出方を見ると、どう考えても道化的役割を自ら引き受けていて、いろいろと間の抜けたポーズを取っているけれど本人達は絶対に笑わないそのスタンスはマルクス兄弟というよりはキートンに近い。彼らが出ることによって人は画面上のオブジェよりも2人の存在の方が気になり、結局画面のどこが見るべき焦点なのか分からぬまま宙吊りにされる。これも不気味だ。
(1)マザー・サン(1997ドイツ・ロシア、アレクサンドル・ソクーロフ監督)
ついに「鈴木治行のすべて」にソクーロフが登場する日が来てしまった。一体ソクーロフほど徹底的なまでに20世紀芸術に真っ向から背を向けてきた「反動的」な作家がいるだろうか。現代芸術の最高の成果に対しても「モダニズム」の一言で斬って捨て、19世紀以前の芸術と精神性への深い愛着を隠さないソクーロフ。この「母と息子」では19世紀ドイツのあの天才的な画家フリードリヒを直接に参照し、画面から奥行きを奪い去ることで絵画的な平面の世界を現出させている。そしてそこで全体を貫くのは至高の「愛」のモチーフであるだろう。「魂」の表現を信じるソクーロフを批判するのは易しい。だが、「ロシアン・エレジー」や「精神の声」を見てしまった者はソクーロフの目指す魂の崇高性が生半可なものではないことを知る。そこには紛れもなく「偉大」としか呼びようがない強靭な何かが圧倒的な強度で屹立しているのだ。徹底的に現代に背を向け過去に沈潜していくことで、逆にソクーロフはモダニズムとは正反対の方向から一挙に現代の最もアクチュアルな作家になったのだ。21世紀の映画の「可能性の中心」はゴダールとソクーロフの両極の間にある。9月6日より渋谷・ユーロスペースにて連日夜9時より上映。
(2)周遊する蒸気船(1935アメリカ、ジョン・フォード監督)
ソクーロフに続いてフォードもついに登場する。今月は濃いなあ。別段ソクーロフとフォードを比較する必要もないしあまりに違い過ぎる2人だが、大きな差異を一つ上げるならば、フォードはハリウッドのシステムがまだ健全に機能していた時期の量産されていた映画を支えた職人であったのに対し、ソクーロフは完全にそういったシステム外で一本一本資金の捻出から何から考えねばならない時代に生きているということだ。こと映画に限った話ではないが、量産の一つのメリットに、作品に芸術臭が付かない、ということがある。今の映画状況のように、何年に1本、というのが珍しくなくなると、どうしても「入魂の作」になってしまい、周囲もそれを期待し、それが結果的に余計な負担になるのだ。それに対してフォードのどの映画にも見られるフットワークの軽さ、遊び心、つまり精神の自在さの感覚は本人の資質に加えてそういった映画を巡っての状況も大きい。「周遊する蒸気船」のショット、演出の一つ一つが人生をおおらかに肯定し、始動するアクションの一つ一つが今、そこにしかない絶対的な的確さでもって我々の前に現れる。
赤い蛇(1983、日野日出志)
日野日出志はメルヘン作家である。彼が讃えてやまない日本の古い民話や伝説に結晶した美のエッセンスは、彼の作品を通して新たな形で再生する。それは時としておぞましかったり耽美的であったりするのだが、怖かった記憶はあまりない。恐怖というものが崇高の裏返しであるとすれば、それは自分が理解を超えたものに晒されている、という感情と密接に繋がっているはずだが、日野日出志作品に異形のものが出てきたとしても、それは多くの場合こちらを襲ってくるというよりは、存在の悲しみを湛えてただそこにあるだけだ。「水の中」で母の死体をただ見つめ寄り添うだけであったあの少年の位置に我々も立たされる。この「赤い蛇」においては、異形の事態のめくるめく連鎖が全篇を貫いている。その一見おぞましい世界に立ち籠めているのは日本の旧家の懐かしい匂いであり、逞しくも素朴な幼児的想像力に他ならない。
★来月から一つ一つをもう少し短くして項目をふやそう……。
1996
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(c)1997 Haruyuki Suzuki