今月の1曲
今月の1枚
今月の公演
今月の展覧会
今月の1本
1997
湯浅譲二/ラジオ・ドラマ「コメット・イケヤ」(1966)
湯浅譲二には、寺山修司との共同作業によるラジオ・ドラマが2つあって、それが「まんだら」とこの「コメット・イケヤ」なのであった。新彗星の発見と同時に消えた一人の男の物語に盲目の少女の独白を交えたこの作品は、レトリックとして作為的な因果律、宿命論を持ってくるところが非常に寺山的でテキストについて考えてみるだけでも十分興味深いのだが、ここでは端折って音楽、音響について触れてみよう。いわゆる古典的な意味での「音楽」は、有名なフランスの童謡(?)の「月の光」だけしか用いられていず、あとは若干の生楽器による音楽と電子音楽が多くを占める。生楽器というのは、湯浅にとって馴染み深い能の謡いであったり尺八であったりして、翌1967年の「花鳥風月」で初めてコンサート作品で邦楽器(箏)を用いる以前にこのようにドラマ等の音楽で邦楽器を徐々に試していた可能性は高い(これは武満も同様)。もうスペースがないが、世界の謎を謎のまま提示するこのテキストに対して、不可知論的宇宙に迫ろうとする湯浅の音楽はその特質からいってまさにはまり役であったといえよう。
エルドン/Allez Teia(1975)
フランスの前衛的なロックではエトロン・フ・ルルブランと共に迷わずにエルドンを挙げる。ほぼ同時期のジャーマン・ロックにおけるエレクトリック・ミュージックの流れに丁度呼応するのがフランスのエルドンと言ってもいいが、この「Allez Teia 」には、今や個人的には傑作「終わりのない夢」(1976)以上に思い入れが深い。一方、ここまで読んできた人には意外に思われるかもしれないが、この「Allez Teia 」は、まずもって感動的なギター・アルバムでもある。徹底して無機的な電子音の楽曲に対比して、生命を持った線のようにうねり、波のように緩やかに寄せては返すギターの呼吸に我々はどこまでもいざなわれてゆく。ユートピアへの船出。
(Heldon/Allez Teia - Spalax Music 14235)
クセナキス作品集(8月23,25日、サントリーホール)
毎年サントリーホールでこの時期に催されるこのコンサートシリーズ全6公演のうち、2つが今年はクセナキスに充てられている。演奏のことはとりあえず措くとして、演目を見ると特にオーケストラの日(8/25)が非常に興味深いのでここで取り上げることにした。全4曲のうち3つまでが全盛期のクセナキスがどんなであったか偲べるものになっている。唯一の90年代の作品「キアニア」と比べてみると面白かろう。中でも今日まで全く聴けないできた「ST/48」がやっと聴けるのは嬉しい。おそらく他のSTシリーズと同様の作り方をしているはずで、大体の想像はつくが、「ST/4」や「ST/10」よりはバラバラに制御されている音数が格段に多い分ただのカオスになりやすい危険度が高く、クセナキスがその手前でいかに踏み留まっているか、興味は尽きない。また、もう一方の室内楽の日だが、あの小ホールで聴衆を6人の打楽器奏者が囲む「ペルセファサ」をやるのは殆ど無謀ではないか。あれはどう考えても大ホールでやるべき曲なのだが。
ジャン・デュビュッフェ(〜8月31日、新宿・伊勢丹美術館)
デュビュッフェを戦後のフランス現代美術の代表的作家の一人に挙げることに通常そう異論は出るまい。日本でも他のフランス現代作家よりは比較的見れるし、パリとなると更に出会う率は高くなる。ポンピドゥー・センターの近代美術館の中には、後期の赤、青、黒、白の4色指定による有機的細胞の集まりのような本人言うところの「ウルループ」の作法によるでかい作品(一つの作品が部屋自体と一致していて、鑑賞者は洞窟探検のようにその中に入る)もあった。もっともあそこのは白黒2色だったような気もする(あの洞窟の中で興味津々のフランスの女子中学生の群に囲まれた日のことを思い出す)。たとえ全くの抽象作品を作っても、彼の作品は、彼が生涯愛した幼児や精神障害者の絵画のようにプリミティヴでユーモラスな趣を常に備えているのだ。素朴派の抽象画というのがあるとすれば、それはデュビュッフェ作品のことだろう。
2/デュオ(1997日本、諏訪敦彦監督)
さして日本映画の新作を多く見ている訳ではないが、まだ見てない「もののけ姫」を別として、この「2/デュオ」以上の収穫が今年の日本映画にあろうとは思えない。真にすばらしいフィクションは往々にして、意図せずして演技する者のドキュメンタリーたりえているものだが、長年TVドキュメンタリーを手掛けてきた諏訪敦彦はおよそTVとは対極のスタイルによって究極の演じることのドキュメンタリーをこの処女長編によって撮り上げたのだ。それはつまり、諏訪敦彦は青山真治と並んでルノワール、ロッセリーニを経たヌーヴェルヴァーグの正当な後継者であるということにほかならない。同じ、一組のカップルが崩壊してゆく物語といっても、篠崎誠の「おかえり」が「演ずること」を生々しく剥き出しにするより前についつい審美主義のヴェールで映画を臆病にもくるんでしまったのとは反対に、「2/デュオ」の作家は審美主義を放棄する倫理と勇敢さを兼ね備えている。テアトル新宿9:20PMより1回上映。なお驚くべき音の繊細さにも注目。
1996
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(c)1997 Haruyuki Suzuki