2000 7

今月の1曲
ドミトリ・テルツァキス/Rabasso(1992)
同じくギリシャ出身の作曲家といっても、クセナキスとテルツァキスの、各々の自国の音楽との距離の取り方の違いは大きい。クセナキスは、精神的基盤はともかく、音楽の具体的な素材レベルでは西ヨーロッパ的なものに大きく傾斜し、ギリシア的な音素材を直接参照する、ということはやって来なかったように思える。とはいえ、ギリシア音楽の専門家から見ればまたそうでもないかもしれないので、その辺はご教示を仰ぐとして、一方テルツァキスはどうかというと、こちらには明らかに素材レベルでの参照が見られる。本人も明言しているように、彼の音楽にはビザンチン音楽の影響が大きい、ということで、ビザンチン音楽についても疎いこちらとしては、そーですかと受け入れるしかないのだが、本人の説明を更に聞くと、ビザンチン音楽にある、増2度を含んだテトラコードを全音程間に拡大、適用して彼自身のスタイルを作り上げた、ということになる。確かに、テルツァキスの音楽を聴いて誰しもが感じるであろう増進行と微分音程による歪んだテイストは独自のものだが、そうすると、彼の音楽は19世紀以来さんざん行われてきた国民楽派の運動の延長線上に位置づけるべきものなのだろうか。民謡などをそのまま用いるのではなく、その分析を経て音程関係の特徴を抽出、再構成した素材、というとバルトークを思い起こさせるが、テルツァキスの音楽を一番かつての国民主義から隔たらせているものは、実はそれらの特徴的な音素材を処理する手つき、即ちヘテロフォニー的な音の扱いに他なるまい。拍節感を脱した流動体的なヘテロフォニーの使用は、百年前の国民主義にはなかった現代のある種の傾向だろう。同じ素材からなる複数の声部が、時には目まぐるしく動き回り、時には緩やかに淀みつつ絡み合って先へ進んで行く様は、川の流れが、川幅の増減や傾斜の変化に伴ってその都度様相を変えながら、それでも確実に下流に向かって流れて行く様子を思い起こさせる。テルツァキスがメロディを重視するのはヘテロフォニックな作法からして当然だが、彼が管楽器や弦楽器を多用する傾向にあるようなのも、このことと関係あるだろう。この『Rabasso』もサックス四重奏と弦3本のための作品。
(DONAUESCHINGER MUSIKTAGE 1992/Col legno WW 3CD 31860)

今月の展覧会
菅井汲(〜8月20日、木場・東京都現代美術館)
菅井汲を知ったのは80年代の前半に池袋の西武美術館で開かれた個展からだが、そのおよそ日本人離れした作風に強い印象を受けつつも、自分の中のどの引き出しにこの作家を収めればいいのかがわからず、それ以後もずっと、自分の中で居心地の悪い作家としてあり続けてきた。とはいえ、今回の回顧展を見ても明らかなように、菅井汲は決して作風の曖昧な作家ではないどころかいつの時代のどのスタイルを取っても表現の方向は明快で、いかなる迷いもそこには存在しはしないのだ。明るくスピード感に満ちたいわゆる菅井汲のスタイルが始まるのは大体60年代前半からだが、それ以前、例えば50年代の彼の作品でも既に習作のレベルではなく、難波田龍起や山口長男の、日本的な書のエッセンスを抽象画として昇華した作品と同列に並べて然るべき濃度を備えているとまで言ってしまっても構うまい。よくいわれるように、菅井の作品は60年代前半に大きく変化した。それ以前の、絵の具のマチエールを押し出したアンフォルメルな作風は、次第にハードエッジな輪郭を持つようになるとともに、更に円やチェック地やS字形などの記号の導入に伴う素材の規格化が推進された。スタイルの変化とともにタイトルも変化し、例えば50年代では「鬼」や「祭」などの「民俗伝承系」が目立ったのが、作風の変化に合わせて、「○○ルート」といった「道路系」のタイトルが多くつけられるようになってきた。彼自身、ポルシェを駆るスピード狂として有名で、車の運転の体験が60年代以降の作風に重要な影響を及ぼしているのは間違いない。スタイルが変わってまもない頃の作品には、高速で走る車からの風景を抽象化し、彼本来の要素並置的な手つきによって構成したものもある。そうして獲得したスタイルを、やがて彼は車からの風景抜きに、純粋に形象として更に洗練させていったのだ。また、大岡信の言うところによれば、1967年の大事故以後、しばらくは自分だけでは絵が描けない状態にあってアシスタントを使用したため、細かい描き込みができず作風の簡素化が推進された、というのも頷ける話だ。

今月の2本
(1)どっこい!人間節(1975小川プロ、小川紳介監督)
日本には、世界に誇るべき偉大なドキュメンタリー映画の作家が少なくとも3人はいて、その3人とは亀井文夫、土本典昭、そして小川紳介なのは今さら強調する必要もないが、この中で一番若かった小川紳介を8年前に失った欠落はちょっとやそっとのことでは埋めようもない。土本典昭の「水俣」がある一方、小川紳介は「三里塚」と晩年の「牧野村」というのがその生涯の仕事の主軸になった。『三里塚・第二砦の人々』(1971)を初めて見た時の二重の衝撃は、おいそれと忘れられるものではない。一つは、自分が三里塚に対していかに何も知らなかったか、というショックで、もう一つはこのドキュメンタリーが映画として持っている圧倒的な力に打ちのめされたショックなのであった。どんなに悲惨な現実にカメラを向けていても、最終的にそこに映し出されるものは絶対に人間の、生の力強い肯定、なのは小川紳介のあらゆる映画に共通する基本姿勢であり、それがあるからこそ彼の映画は何度でも見るに値するのだ。また、「外部」の人間である撮影班がちょこっとやってきて「お宝映像」だけを頂戴して仕上げるようなドキュメンタリーを毛嫌いする小川紳介は、その土地の人間になりきるところから出発する。だから、彼は三里塚には7年、牧野村には13年暮らす道を選んだ。三里塚を撮っている過程で、単に闘争を撮るのではダメで、農民の生が大地と直結してあることを、言い換えれば農業を撮る、ところから出発することの重要性を感じた小川紳介は、その教訓を牧野村に移ってから更に徹底して実践し、その成果は、晩年の『ニッポン国古屋敷村』や『1000年刻みの日時計・牧野村物語』という、長大な叙事詩的絵巻として結実した。これらの作品の中で、延々と稲の生育の仕組みや受精の秘密など、小学校の理科の時間に見る番組のような話が出てくるのも、そうした彼の認識から来ている。これらの作品を前にすると、もはやドキュメンタリーかフィクションか、などという区分が全く無効化していることに気づく。巷で時折騒がれる「ヤラセ」問題がいかにアホらしいかがわかろうというものだ。小川紳介はまた、エイゼンシュタインにも比肩する偉大な「顔」の作家でもある。『三里塚』シリーズで登場する農民たちの一人一人の表情の豊かさを見るがいい。横浜・寿町の日雇い労働者たちを撮ったこの『どっこい!人間節』でも同じことで、事故や病気で平均寿命が40代というここの人々の表情に我々は、ブニュエルの『糧なき土地』において、バザンが、死んだ子を抱いた母親の表情に見出したのと同じ崇高さを見出す。8/9〜8/19の間、御茶ノ水・アテネ・フランセ文化センターにて全22作品上映。
(2)夜の蝶(1957大映、吉村公三郎監督)
40年代と50年代を全盛期として大映の看板監督の一人であった吉村公三郎は、現代の風俗映画の作家として一番印象に残っている。確かに、『源氏物語』の華麗さ、『越前竹人形』の民話的趣も捨てがたいけれど、京マチ子や山本富士子、若尾文子、森雅之、船越英二などの当時の大映のスターを中心にしての、あでやかであると同時にはかなくもある大人の恋愛風俗映画の数々が最も記憶に残ってしまっているのはなぜだろう。60年代になると大映の現代ものの顔はより屈折した増村保造や市川崑に移行したが、溝口や吉村の世代と増村らの世代の「現代観」には明らかに断絶がある。何も大映だけの話ではないのだが、何というか、もともとは白塗りの顔に演劇的な芝居から始まった日本映画が、やがてより現実に近いメイク、所作に降りてきて、それでもまだどこかで「美しく飾った夢のような世界」だったのが、増村の『くちづけ』の有名な薄汚れた建築現場でのキス・シーンのように「甘い夢」を突き放すような「リアルさ」へと変化してきた、ということなのかもしれない。後年の東映の、着流し任侠映画から実録ものへの移行もそれと同じ。さて、話をこの映画に戻すとして、ここではバーのマダムの京マチ子と京都から進出してきて店を開いた山本富士子の二人の女の、商売と男を巡る確執が描かれてゆく。最後、泥酔い運転の山本富士子が、京マチ子と山村聰の車に横付けしてぶつかってゆく時の山本の目のクローズアップは、それが山本富士子であるが故に一層印象的だ。もう一つ興味深いのは船越英二で、彼は新進の「前衛」作曲家。黛敏郎の作った無調のピアノ曲を自宅のピアノで奏で、五線紙に向かうシーンが何度も出てくる。「3人の会」のコンサートのポスターが一瞬映るのはご愛嬌か。




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