今月の1曲
ジョン・レア/Vanishing Point(1983)
レアは1944年生まれのカナダの作曲家だが、少なくとも日本には彼の情報はほとんど入ってこない。彼の全体像について語るにはまだ時期尚早だが、これまでに聴いた印象でもある程度作風の特色を述べることはできる。この『Vanishing Point』(消点)はオーケストラのための作品だが、遠近法における彼方に収斂する点を指すこのタイトルはそのまま曲のイメージと容易に結びつく、という意味では非常にわかりやすい。全体を通して、反復音形が基本的な構成要素になっている、というとミニマル・ミュージックかと思われそうだが、そうではない。というのは、反復する素材が動き方も速さもその都度異なっていて、しかもそれが自在なオーケストレーションの処理によって多層的に重ね合わされたりしているために、「反復」という側面はそう前面には出ず、むしろ、たえず万華鏡のように色彩を変化させてゆく音の織物の様相を呈している。全体的にディアトニック(あるいはモーダルか)なのも明るい色彩の印象を強めているかもしれない。その反復音形はその都度何らかの変化の方向性を持ってはいるものの、ある大きなディレクションが全体を統べることはなく、むしろ散発的な小さなディレクションの集合体、と言うべきで、全体は無方向的なスタティックな印象。その、音が常に錯綜して目まぐるしく動き回っているのに反しての全体としての静止した印象は、高速度で回転するコマを思わせもする。ただ、後半に出てくる一つのディレクションだけは他と比べてややでかく、ここに作曲者の形式についてのバランス感覚を見ることもできよう。ただ、コンセプトはオップ・アート的だがオーケストラの扱いはむしろ伝統的で、そう野心的な作品というわけではないが、アメリカ実験音楽のエコーから生まれた豊かな成果の一つの例、というところかな。

今月の展覧会
オノデラユキ(〜9月10日、日本橋ツァイト・フォト・サロン)
今回のこの展覧会にはオノデラユキのいくつかのシリーズのうちの「P.N.I」と名付けられた連作が出品されているが、元々のモノクロのぼやけた作風は保たれつつも、ここでは非常にラディカルかつクリアなコンセプトが作品として結晶している。一見して、このシリーズでは人物の顔のクローズアップが写されているのだが、更によく見るといろいろな点で不自然なことに気づく。顔の中の目鼻の造作がどうも歪んでいる。そして、人間の顔が持っているはずの何らかの表情が、いくら見ても全く像を結ばない。初めは人形の顔のアップ写真なのかと思ったのだが、これは実は、雑誌や新聞から切り取ってきた目や鼻の写真を粘土に貼り付けた上で、それをピントをずらして撮ったもの。ピントが合っていないために、その操作の痕跡がぼかされて存在する(ように見える)人物の表情(らしきもの)がおぼろげに浮かび上がってくる。人はなぜ、どのように表情を読み取るのか。ただそこに目や鼻らしきものがあるというだけで、なぜ人はそこに何らかの「感情」や「表情」を勝手に見てしまうのかという、表情の認識の根本問題がここには横たわっている。元来、人間は人の顔の表情というものに対して、他のものを見る時よりはるかに多くの情報を読み取るべく生まれた時から無意識のうちの修練を積んできたはずだ。彼女のこのシリーズはそのことに思い至らせてくれるが、この点において、全然外見上は隔たっているものの、実はこの「P.N.I」シリーズは根本敬の「死体写真」と同じ問題系を有している。現在、群馬県立近代美術館にてオノデラユキのまとまった個展が開かれているが(〜10月3日)、これもどうやらひとっ飛びして行ってこないわけにはいきそうにない。

今月の1本
魅せられて(1996イタリア、ベルナルド・ベルトルッチ監督)
『ラストエンペラー』までは言うことないとして、次の『シェルタリング・スカイ』で基本的には肯定しつつもやや疑念が生じ、続く『リトル・ブッダ』があんまりな出来だったので、これでもうベルトルッチも終わったのか、と一旦は見捨てかけたところへこの『魅せられて』が現れる。「ベルトルッチは終わった」という巷の言説に乗ってその物語に沿ってこの映画を見てしまうと、小さな宝石のようなこの作品の輝きを見失うという貧しい結果に陥るので要注意。僕も、どうせダメだろうと『魅せられて』をだいぶ長い間見なかった一人だが、いやいやどうして、そこには思わぬ彼の復活した姿があった。『ラストエンペラー』から3本続く「エスニック路線」それ自体が彼の低迷の原因ではないだろうが、『リトル・ブッダ』が今のアメリカ映画の悪い面ばかり引き受けてしまって丁度黒沢清の『スウィートホーム』のような形で道を誤った反省を踏まえてかどうか、この『魅せられて』ではエスニック色は消え、イタリアのトスカナ地方を舞台に一人の少女が性に目覚め大人へと成長してゆく物語が瑞々しく綴られてゆく。それも、その娘はアメリカからイタリアにやって来るというのだから、これはベルトルッチの意識的な回帰宣言なのかもしれない。主役のリブ・タイラーはすばらしいが、父親に唇が似なくてよかったとつくづく思う。長年のコンビ、カメラのヴィットリオ・ストラーロは今回はダリアス・コンジに代わっているが、カメラの動きはストラーロ的流麗さを保っている。さすがに『暗殺のオペラ』や『ラストタンゴ・イン・パリ』の頃の希有の高みにまで達しているとは言わないけれど、大作主義を一旦捨ててのこの瑞々しい再出発は素直に祝福したい。

今月のマンガ
おみっちゃんが今夜もやってくる(1959、楳図かずお)
楳図かずおの活動があと数年で半世紀というところまできているという事実は、にわかには信じがたい。一つは彼自身が年齢不詳のように見えるということもあるが、自分の方向を掴んだ段階で様式が固定されてそのまま時代とともに古びてゆく(ただしこのこと自体は表現の質の高低とは関係ない)、という大多数の表現者が歩むパターンをなぜかは知らぬが楳図かずおは全くなぞらなかった、という理由も大きいだろう。もちろん、基本的には「恐怖マンガ」というラインは常にキープされてきたのだが、70年頃を境に実は恐怖と笑いは紙一重、と悟ったせいかどうか、ギャグマンガへも意識的に接近していった。楳図かずおの活動の傾向の変化を大きく眺めると、初期の貸本マンガ時代から60年代後半くらいまでは、主に「異形の他者」による恐怖が圧倒的多数を占める。これは要するに、化け猫とか蛇とか蜘蛛とか怪物、幽霊などの自分の外部にある他者が自分(ほとんどの場合少女)を襲う、というもので、まあおそらく一番基本的な恐怖のアーキタイプとでも言えようか。しかし、60年代も末に近づくにつれて楳図かずおは「異形の他者」に拠らない人間心理の内面的な恐怖へと向かってゆく。これは、もっと前から彼が繰り返し描いてきた「醜くなることへの恐怖」の発展形なのかもしれない。「醜い人物」を単に外部の存在として見ればそれは怪物が怖いのと同じことにすぎないが、その人物と自分がもし同一化したら、と想像するとそこには全く違った心理的な恐怖が現れてくる。恐怖の対象が外部から自分自身の内部へと方向転換を始める。そのはるかなる延長上に、例えばホラーの純粋実験とでも言うべき『神の左手悪魔の右手』の、身体の内部から皮膚を突き破って出てくるハサミなどのイメージがあることは言うまでもない。更に、その自分の身体の内部が他の異世界へとつながっている、というところが凄いのだが。80年代以降(というか『わたしは真悟』以降)になると、もはや「恐怖マンガ」という言葉では括れない。ここに至っては、もはや「他者」も「内面心理」も崩壊し、「恐怖」は抽象化されてディテールの歪み、不安げな予兆に満ちた時間・空間の失調感覚が支配的となってゆく。ついに楳図かずおはここまで来たのだ。さて、余裕がなくなってしまったが、最後にこの『おみっちゃんが今夜もやってくる』について一言。初期の傑作であるこの作品では、少なくとも2つの点で楳図かずおは勝利している。一つは、おみつの墓を部屋をよく見渡せるでかいガラス張りの窓の向こうの庭に造った、というその設定において。もう一つは、何度も反復される、深夜におみつがガラス窓を通り抜けて部屋に入ってくるシーンの、たっぷりとコマとスペースを割いたことによるどこまでも引き延ばされてゆくような悪夢的な時間感覚において。




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