ついつい筆(キーを叩く指)が滑ってしまうという悪癖ゆえ、回を追う毎に少しずつ文章が増量し、結果的に自分の首を絞めておりますが、現在修羅場の只中であることもあり、これを機に文章量を減らす方向へ持っていこう、と考えました。スタート時の「すべて」のように項目は多くて一つあたりの文章量を短くするか、逆に項目を減らして一つあたりの文章量は減らさないか、という選択になり、結果的に項目を減らすことにしましたが、別にネタに詰まってのことではありませぬのでそこんとこよろしく。

今月の1枚
エヴァン・パーカー/Six of One(1980)
思えば80年代前半にたまたま聴いてしまったこの『Six of One』がエヴァン・パーカーとの出会いだったが、その時の衝撃が今聴き直してもいささかも色褪せてはいない、という事実に再び驚く。このアルバムはソプラノ・サックスのみのソロ・インプロヴィゼーションだが、それまでに聴いてきたどのフリー・ジャズのサックスの即興スタイルとも異なっていた。パーカーと同じイギリス出身で、同じ「カンパニー」の同人でもありその後の即興音楽に世界的規模で影響を与えてきたギターのデレク・ベイリーに、サックスにおいて相当する人物といえばそれはエヴァン・パーカーをおいてはいないだろう。もちろん、ソプラノ・サックスの即興といえばスティーヴ・レイシーだっているわけだが、レイシーの方がパーカーよりもオーネット寄りである分、まだジャズのテイストはそのスタイルの根にあると言え、それがレイシーのよさでもあるのだが。パーカーの場合は、もうここまで来るとジャズというよりは現代音楽的なテイストの方が強くなってくる。完璧な循環呼吸を前提に、ハーモニクスを自在に駆使しての目まぐるしく万華鏡のように変化を続けてゆく音の奔流。あたりに倍音の飛沫を細かい粒子のように撒き散らしながらたゆたう音の河。耳が、繊細さと大胆さの間で引き裂かれ、どこまでも透明になってゆく。7年前から活動しているElectro-Acoustic Ensembleでも、パーカー本人のスタイルは基本的には変わらないのだが、ここでは音の河はサックス、弦、打楽器と電子音の全体として紡がれ、個々の楽器の横の、即ち線的な流れは響きの総体の中に溶融してゆく。

今月の展覧会
(1)岡崎乾二郎(2月19日〜3月6日、京橋・南天子画廊)
岡崎乾二郎ほど美術史、及び自分の方法論に対して自覚的な美術作家もいまい。ジャンルの固有性をどこまでも純化してゆくグリーンバーグのモダニズム理念に対して随所で撹乱の素振りを見せつつも、彼の作品は未来永劫モダニズムと無縁の存在になることはないだろうし、またそうなる必要もない。むしろモダニズムを徹底的に引き受けた上でそれを超克してゆくことこそが他の何人にも期待し得ない岡崎の役割とは言えまいか。フォーマリズムを能もなく反復するだけの作家なら大勢いるし、それへ反抗したはいいが結局無邪気で素朴な「感性」を開陳しているに過ぎない作家も大勢いる。しかし岡崎はその圧倒的な知性と嗅覚でいずれの落とし穴をも見事に回避し続けてきた。今や新人ではなく中堅どころ、もしくはベテランと目されるであろう彼は、初期に個人的にも近かった宇佐見圭司が、己が過去に獲得した手法を洗練させながら、大家となるにつれてよくできた、だが安全無害な大作(最近の宇佐見はダンテ的な宇宙観を絵画に投影しようとしているようだが……)を目指し「大成」してゆくという、あらゆるジャンルの大部分の芸術家が辿ってゆく道を今のところ周到に避けることに成功しているように思う。一見「ダイナミック」で審美的に「美しく」見える彼の作品は、なるほど見事に「大成」しつつあるようにも見えよう。しかし気をつけたまへ、岡崎作品にはいつも幾重にもひねりの利いた罠が仕掛けられているのだ。気づかなければ気づかないで何気なく通り過ぎて終わってしまうが、それに気づいた途端に世界が反転してしまうような、そんな仕掛けが。岡崎作品の前に立つ時、あなたは彼に試されているのだということを忘れてはならない。奇しくも今、岡崎展と時を同じくして埼玉近美でドナルド・ジャッド展が開かれているが(ジャッド展については来月書く予定)、モダニズムの栄光と退屈を一身に背負ったこの極めて重要な作家の回顧展を岡崎展と並んで観ておくことは、20世紀美術のコアの部分に迫ろうと思うならば避けては通れない道であろう。
(2)ドゥエン・マイケルズ(〜2月28日、新宿・小田急美術館)
時に人を爆笑に誘いもするドゥエン・マイケルズの写真は、しかしなかなかいろいろと考えさせてくれる要素に満ちている。マイケルズのスタイルにはいくつかの特徴がある。まず彼は、映っている事象そのもので語らしめるという写真の純粋性に殆ど興味がないかのようだ。彼が「不純」であるのは、「言葉」、あるいは「シークエンス」という写真に本来備わってはいない外的な要素を積極的に写真表現の場に引き込む、という点にある。ある1枚の写真でも、そこに言葉によって別の意味性が付与されると、そこに新たな別の意味性が発生するだろう。しかし、マイケルズを一躍有名にした特徴といえば、それは「シークエンス写真」と呼ばれる連続した複数の写真で一つの作品を構成するスタイルに他ならない。それを見てかつての泉昌之の「写真4コマ」を連想したとしても何ら不思議ではないが、多くの人はむしろ映画のフィルムのコマの連続を思い浮かべるのではないか。そこから、映画の1シーンのコマを分解して並べた、というような印象もあり得るのかもしれない。だが、よく見てみると、またはちょっと見てみても、彼のシークエンス写真では1枚1枚の写真の間に洩れ出ている「行間の表現」するものが非常に多い。とするとこれは外見の類似に反して映画のコマの連続とはかなり性格を異にすると言わざるを得ない。映画では、コマの連続のスピードのおかげで、コマとコマの間にあるものなどは見ようにも見えはしないのだ。本当は、マイケルズのマグリット経由のだまし絵的な性格についても触れようかと思っていたが、更に長くなってしまうのでまたいずれ。何はともあれようやく彼の作品をまとまって日本で観れることになったのは嬉しい限り。

今月の1本
十三人連続暴行魔(1978新東宝、若松孝二監督)
1965年の若松プロダクション設立以来、80年代に一般映画に進出するまで数多くのピンク映画の巨匠として名を馳せた若松孝二だが、実のところ、ピンク目的で映画を見に来た客たちがはたして彼の映画で満足したのかどうか、かねてからずっと疑問だった。だって、早い話が通常の意味では全然ヤらしくないんだもんっ。むしろ方向としては同時代のアート系のATG映画の系列に近かったように思う。ただ、本人は「芸術」をやってるつもりはなかっただろうし、かといってピンクのつもりで撮ってるとも思えず、実のところは「ピンク」を口実にして社会や世界に対する捉えどころのない怒りを徹底的にアナーキーにぶちまけたらああいうのができてしまった、というのが真相なのではなかろうか。60年代から70年代にかけてのこれら若松の作品群に漲る得体の知れない、ある決定的な強さの印象は、彼個人の映画的才能云々というよりも、彼の方向性が、時代の何かと見事に一致してしまった、言い換えれば時代に愛されてしまった、ということに尽きるのではないか(日活ロマンポルノにもそういう要素を感じるが)。だからこそ大島渚も若松孝二を擁護したのだし、周りから危険視され、ベルリン映画祭に出品した『壁の中の秘事』が国辱映画呼ばわりされながらも若松は迷うことなく我が道を突き進むことができたのだった。今回、BOX東中野にて2/26まで若松プロの映画が21本上映されているので、若松映画に封印された時代性を肌で感じるにはいい機会ではあるが、この『十三人連続暴行魔』の方はといえば、これはこのBOX東中野の一環ではなく、惜しくもこの度閉館と相成った亀有名画座の最期の日、2/28に1回上映される。かつて初めてこの映画を観た時、タイトルも込みでそのあまりにも冷め切った、即物的な姿勢に驚いたのだった。一切の美化もひねりもなく、ただ淡々と一人の孤独な男の暴行の記録を見せてゆくのだが、その即物性が、実は世界への絶望を突き抜けた果てに至った境地の産物だということが、阿部薫の凄絶なサックスの音によって分からされてしまう。実は今のところ阿部薫は評価できないが、この映画での彼の音楽の使い方は圧倒的にすばらしい、とだけは言っておきたい。




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