今月の1曲
ノイン・チェン・ダオ/ベトナムの母(年代不詳)
永らくフランスで暮らし、今やフランス国籍を持つベトナムの作曲家ノイン・チェン・ダオは、いわば同じベトナム出身パリ在住の作曲家トン・タ・ティエの後輩に当たるが、その音楽は全くと言っていいほど異なっている。トン・タ・ティエの音楽がよくも悪くもコンセルヴァトワール的な細かいメチエを身にまとい、繊細極まるテクスチュアを特徴として洗練の方向を目指すとすれば、ダオの方は泥の付いたままの大根のような骨太の大胆さがその特徴だと言えようか。2人ともベトナム、あるいはアジア的な要素は根強く持っているが、その民族的要素がソフィスティケイトされることを積極的に拒み、あくまで裸のままでこちらに投げつけてくるところがダオの個性を支えている。そこでは、ヨーロッパ前衛音楽の語法と、ベトナム民族音楽的要素とが、中和されることなくぶっきらぼうに衝突している。ダイナミック・レンジの広さ、変化のダイナミズムの激しさは音響自体の表現性を前面に出すタイプの作曲家の中でも特筆すべきものだといえよう。同じアジア出身で、前衛語法に自国の民族音楽的要素を取り込んだ作曲家でも、例えばタン・ドゥンと比べると、そのアプローチの仕方は全く別物だ。タン・ドゥンの場合は、楽器の扱いはそれなりにうまいが、音楽の成り行きも響きの造形も意外と古典的な前衛音楽のそれで、ただそこに中国の民族音楽的な意匠をまぶして表面的にカモフラージュしているに過ぎない。ダオの場合は、音響それ自体の表出性の要請から必然的に形式が導き出されていて、いわば民族的要素が表面の意匠になってはいないのだ。

今月の展覧会
(1)エド・ヴァン・デル・エルスケン(〜9月27日、キリンアートスペース原宿)
エルスケンがパリはサン・ジェルマン・デ・プレの人々を素材に架空の恋愛ストーリーを構成してまとめた処女写真集『セーヌ左岸の恋』が、今、原宿で見られる。エルスケンの写真をまだそう多くは見ていないが、少なくともこの作品におけるエルスケンの関心は、人間たちそれ自体に向けられている。先に「素材」と言ったが、誤解なきよう言い添えておくならば、彼は人間をオブジェと見なして純粋な構成物の一要素に還元するタイプの写真家ではない。物語は架空のものであっても、そこに写されて息づいている人間たちは紛れもなく本物であり、生身の人間一人一人の存在そのもののリアリズムがカメラに写し取られ、エルスケンの手を通してパリを舞台にした大人の童話として再構成されているのだ。そしてそれはまた、人間のみならずサン・ジェルマン・デ・プレという場所それ自体のドキュメンタリーでもあり、更に言えばパリの50年代という時代のドキュメンタリーでもある。エルスケンのカメラは過不足なく人と街を捉え、審美的な観点からも、いかにも「狙った」的な大袈裟なわざとらしさに陥ることがない。
(2)湯浅龍平(〜9月30日、四谷・VIEWING ROOM)
湯浅龍平の絵画に頻出する斑点は、奥行きのあるなしも判然とはせぬ茫洋とした空間の中で、寄る辺なく無重力に漂う。その作品の色合いが、韓国の現代美術でよく見掛けるくすんだ黒や茶色系を連想させるのは、彼がアメリカを活動の拠点にしていることを思うといささか意外でもある。'void'(空虚)に関心があるという彼は、ある種のタイプの作家が徹底的にポップなものを表層的に取り入れることで逆説的に'void'に達しようとするのとは逆に、ポップさに真っ向から背を向け、実存主義的に、マチエールの複雑なテクスチュアの中にどこまでも沈潜してゆくことで'void'に達しようとする、それはむしろ正統的な'void'への道なのかもしれぬ。各部の具体的なテクスチュアがどのように作られているのか、何らかの不確定な作法が用いられているのかはつまびらかにしないが、仕上がりの鮮やかさと質の高さはなかなかものだ。湯浅龍平の絵画を前にする時、たとえば我々は、数百年もの歴史を経てきた古ぼけた壁を前にしているかのような錯覚に捕らわれもする。そこにある無数の染みや亀裂、汚れの沈黙/雄弁さの前に佇立する。そこに出現する'void'の感覚こそは、彼の父親の言い方を借りれば、彼自身のcosmologyの表明ということになるのだろう。

今月の2本
(1)Health(たしか1980アメリカ、ロバート・アルトマン監督)
アルトマンの映画といえば、やはり70年代の主にシェリー・デュヴァルを主演女優としてフィーチャーしていた頃の作品群は、その独特のいかがわしさと猥雑さ込みで何度でも観たい。集団劇ではない『三人の女』(1977)は、アルトマンにしてはかなり静的な映画だが、静的な中に宿る奇形的な要素が次第に肥大してゆく、言ってみれば群衆劇におけるいかがわしさのエネルギーが女性3人に濃縮されて、ドタバタ騒ぎではなく心理的なおぞましさとして噴出したかのような傑作だったし。いわばアルトマン映画には集団ドタバタ路線と少数おぞまし路線があるといえようか。『ウェディング』を前者の代表作とすれば、『フール・フォア・ラヴ』なんかは後者に入る。で、この日本未公開の傑作『Health』の登場と相成るが、これなぞは典型的な集団ドタバタ路線だろう。何やら健康を讃える会主催のお祭りイヴェントが催されるが、これを、日本でも他人事ではない過剰な健康ブームへの皮肉と取るかどうかはさておき、何といっても老齢のローレン・バコールがすばらしい。ハンフリー・ボガートとホークス映画に出ていた若き日々ははるか彼方へ流れ去ったとはいえ、見事な歳の取り方でカッコいいおばあさんに成長(?)してくれたのは嬉しい限り。そのバコールが、何かと天を指さしたままフリーズするという変わった発作の持ち主で、いちいち人騒がせな存在感を出している。アルトマンも悪ノリして、別のイヴェントが起こって観客がそっちに気を取られているのとはフレーム反対側の端にひっそり立ってるバコールが、フレームで体半分切れた状態でいつの間にかフリーズしてる様に観客がいつ気づくか、と観る者を試したり、といった具合にかなり遊んでいる。
(2)隠し砦の三悪人(1958東宝、黒澤明監督)
黒澤明については当面書く予定はなかったのだが、この度亡くなってしまったので、追悼を兼ねて急遽ここでも取り上げることにする。とはいえ、何でもかんでも褒めちぎり持ち上げるジャーナリスティックな義務もないので、ここで読まれるものはマスコミの絶賛の論調とは少々違うものになるだろう。さて、朝日新聞で山根貞男も触れていたが、黒澤映画について語るのに「ヒューマニズム」という語彙ほど誤解を招くものもない。かつて武田潔は黒澤について、「ラング的な資質を備えた者がフォードになろうとした」不幸、ということを言っていたことがある。これは批判というより、映画史の偉大な巨人フリッツ・ラングを引き合いに出した最大の賛辞だと思うのだが(そしてフォードが単なるヒューマニズムの作家程度の存在ではないことも言うまでもないが)。そう、黒澤映画の最良の瞬間は常にヒューマニズムとは無縁であったはずだ。一見ヒューマニスティックにも見える『わが青春に悔いなし』だって、実はアクション映画ではないか。基本的に物質的想像力とアクションの作家であった黒澤は、人間心理やら人情やらといった自らの資質に反した余計なことを考えずに、純粋にスクリーンの表面に定着すべき雨や光や土や樹の肌合いのことを考え、人間を動く機械として扱った時にこそ、その本領を発揮した。その最たる作品がこの『隠し砦の三悪人』であり、あるいは『椿三十郎』であった。特に『隠し砦の三悪人』においては、いつになく幾何学的な画面構成が、疾走するアクションと相俟って躍動する映画的瞬間を生成していた。現代劇での最高傑作『天国と地獄』(1963)以降、国際的な巨匠としての名声が高まるのに反比例して、周囲から与えられかつ自らも思いこんでしまった「ヒューマニズム作家」幻想に振り回され方向を見失っていったのは何とも残念だった。

今月のマンガ
Beast Tales(1990、坂田靖子)
少女マンガといえば瞳に星、というイメージも既に遠い昔のことになってしまったが、坂田靖子の絵は昔からいわゆる少女マンガ的なイメージとは離れたところにあった。まずもって、これ程顔を描き込まない少女マンガ家もいまい。瞳に星どころか、目はただの丸であることも珍しくない。作品を現実味を帯びたものにするための方策の一つがディテールを描き込むことだとすれば、坂田靖子ははなから読者を仮想現実に引き込もうとはしていないのだろう。その結果、人間の表情の微妙な変化や翳りによる繊細な心理描写などは彼女の関心事から外れ、読者は「内面」などという足枷から解き放たれ、事物のドライな運動や画面の白黒の妙の連鎖の上で戯れることになるのだ。こう書くと、いかにも冷たい無機的な作品を思い浮かべるかもしれないが、随所に充満するユーモアの感覚が絶えずオブラートのように作品を包み込むことによって、無機的な印象は全くない。内面を欠いた、物語の運動のみによって成り立つ世界、それこそがメルヘンの成立条件ではないか。こうして、必然的に坂田靖子の作品は現実界から浮上し、メルヘンの想像界の中を浮遊することになる。僕が、坂田靖子のマンガでは人間よりも動物や妖怪が主人公のものの方に惹かれるのは、もともとそれらが人間のような内面の表情を身にまとっていない存在だからなのだろう。




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