作曲家・鈴木治行のコラム

今月の1曲
ヘルムート・ツァプフ/Rivolto(1989)
旧東ドイツ出身のヘルムート・ツァプフは、長らく教会音楽の仕事と関わって生きてきた。彼の音楽がそのまま教会音楽であるとは言えないが、おそらく彼もまたディットリッヒやウド・ツィンマーマンらに続く「西側に発見されつつある作曲家」の一人なのだろう。とはいえ、2年前にドイツで何人かに彼の連絡先を聞いても誰も知らなかったのだが。あれはたまたま聞いた相手の選択を誤っていたのだろうか。ツァプフの音楽をそう多く知っているわけではないが、今のところ耳にし得たいくつかの音楽を聴く限りでは、どうもダブル・リードの木管楽器(特にオーボエ)への偏愛が目立つように思う。この『Rivolto』はオーボエ(イングリッシュ・ホルン)とヴィオラ、コントラバスのためのトリオだが、やはり、というか、ステージ中央に位置するオーボエの左右に弦2人が座し、常にリードを取るオーボエに対して付き従うような形になっている。特殊奏法によるノイズの偏愛は現代ドイツの作曲家としては今更珍しくはないが、これもまたよく出てくるグリサンドの中に、どうも三和音が隠されていたような気がしている(協和音って、グリサンドされるとそれと知覚しにくくなるような気がするのだが……)。基本的にはポリフォニックな作曲家というよりは、一つの音響の塊を作ることに関心があるタイプといえるだろう。すべて同質な弦楽器のみからなる『Trio』(といってもなぜか7楽器)などを聴くとそのことがよく分かる。

今月の1枚
クリス・ブラウン/LAVA(1992)
サンフランシスコで活動を続ける作曲家クリス・ブラウンは、生楽器をコンピューターを通して変換する作業を通して、強い持続力を持った音楽を作る。彼の言から察するに、この金管四重奏と打楽器と電子音のための『LAVA』においては、絶えず変遷してゆき一瞬たりとも同じところに留まることのない音楽、が目指されている。生楽器の音を電子的に変調された音へと変換してゆく過程は、固体が溶けて液体へと変化してゆく様として彼の頭の中ではイメージされているらしい。そういった生楽器音の変調、という考え方や、変調された音響がノイジーであることなどからは師のゴードン・ムンマの影響を感じるが、一番異なるのは、ブラウンが師とは違って出てきた音響を元に音楽としての持続を組織しようとしている点だろう。スコアを見たわけではないが、本人の説明によると、音程や音色、強弱などは固定されておらず、ただそれらのパラメーターをどういう方向へ変化させるかについての厳密なタイミングの指示がなされているらしい。話を聞く限りではシュトックハウゼンの60年代の音楽を思い出してしまうなあ。音はだいぶ違うけれど。また、安易な世代論は空しいが、ムンマの世代とブラウンの世代の音楽に対する考え方の違いが、音楽としての構成への姿勢の違いに現れているようで面白い。
(Chris Brown/LAVA - TZADIK TZ 7002)

今月の展覧会
フンデルトワッサー(〜7月27日、新宿・伊勢丹)
オーストリアの画家フンデルトワッサーは大の日本好きでも知られており、ある時期以降の彼の作品には日本語の判が押されているのを見ることができるが、まあそんなことは瑣末なエピソードに過ぎない。直線を忌み嫌うフンデルトワッサーにとっては、曲がった線こそが自然と人間とをつなぐ重要な鍵である。あらゆる箇所が不均衡でぎくしゃく、ごつごつしている彼の作品世界の中に入り込んでしまうと、その鮮やかな色彩の対照と1本1本生き物のように蠢く線の形象が確かに人を有無を言わさず説得してしまう。確かにここに一つの強い表現世界がひらけていることを認めないわけにはいくまい。そしてまた、フンデルトワッサーの線と色合いにどこかで見覚えがあることに思い至り、その線の形象の祖先を辿ってゆくと、やがて同じ国出身の一人の世紀末を生きた独自の画家、エゴン・シーレをも思い出さずにはいられない。シーレの表現主義的な線と色合いが一旦脱色化、抽象化され、フンデルトワッサーの中で表現主義ならぬ一種ユートピア的な抽象芸術として蘇生したとでも言おうか。それは丁度、ジョルジュ・ルオーの線が脱色化、抽象化されてアルフレッド・マネシェの抽象絵画の中で蘇ったのと似ている。

今月の2本
(1)内なる傷痕(1971フランス、フィリップ・ガレル監督)
ここでガレルが取り上げられることによって、フランスのヌーヴェルヴァーグの第二世代の最も重要な作家3人がこのコーナーにとりあえず出揃うことになる。あとの2人とは既に取り上げたユスターシュとドワイヨンだが、これにクロード・ミレールを加えてもいいかもしれないし、更にブノワ・ジャコや少し上のアケルマンまで手を広げるも可なり。さて、日本におけるフィリップ・ガレルの受容は1990年に公開された『自由、夜』から始まるが、特にここ1、2年は『愛の誕生』『秘密の子供』『内なる傷痕』と立て続けに輸入されており、日本におけるこれまでのガレル受容の欠落が埋められつつあるのは嬉しい。ガレルの映画は非常に個人映画の色合いが濃いが、もう一つ忘れてはならないのはアメリカのアンダーグラウンド映画からの影響であり、この影響がフランス映画における彼の位置を独自のものにしている。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのニコとの出会いを経由してガレルはウォーホールのファクトリーと出遭う。ガレルの全く非商業的な映画作りは今日まで一貫しているが、アメリカの実験映画の影響が誰の目にも明らかに看て取れるのはむしろ近作よりもこの『内なる傷痕』であろう。ニコと世界中を旅して砂漠や雪原で撮りためたフィルムからなる、この全く物語性を持たない作品は、ガレルとニコの関係とその精神的屈折を露骨に反映しているが故に、実験的でありながらも全く抽象的ではないものになっている。ニコの音楽も、この映画にはもうこれしか考えられないというすばらしさだ。現在、六本木シネ・ヴィヴァンにて上映中。
(2)予測された喪失(1992オーストリア、ウルリヒ・ザイドル監督)
このコーナー初のドキュメンタリー映画となるこの『予測された喪失』においては、出てくる人物はほとんどが老人ばかりである。チェコとオーストリアの国境の村で余生を過ごす老人の日々を見つめるカメラの眼は、一切の半端な同情も憐憫も寄せつけない。淡々と続く日常の中では、食用に殺される兎や首を打ち落とされる鶏もまた、日々の当たり前な営みの中の1ページに過ぎない。随所に現れる老人たちの性についての悟りとも憧れとも幻滅とも取れる会話は、いまだ「老後」なるものを具体的には知らないこちらにとってはかえって初々しく響く。既に夫婦の片割れを失っている人の方が多いらしいこの村。夜中、ふと目が覚めて妻が寝ている方に手を伸ばすが、次の一瞬、もう亡くなっていたことを思い出す老人のエピソード。後半は、やもめのおじいさんが未亡人のおばあさんに想いを抱く話が中心になってゆくが、2人の全く盛り上がらない淡々とした挙措の一つ一つはとてもとても人生の達人どころか、今初めて体験することであるかのようにたどたどしい。途中で何度か出てくる、佇む老人たちを緩やかになめてゆくカメラの360゜パンのショットは、あまりにも人間くさい彼ら一人一人の肖像をイコンとして固定化する作用を持っているのだろう。

今月のマンガ
青のマーブル(1988、松本充代)
最近の松本充代については知らないのでまたしても少々古い話になってしまうが、さて、松本充代といえばやはりガロ系のマンガ家という大方のイメージは拭い去り難くあるのだろう。別段拭い去る必要もあるまいが。もともとデビューの頃から絵のセンスの良さは高く評価されていたはずだ。しかし、松本充代の作品にはあまりに私小説的匂いが強かった。おそらくほぼ同年代だと思われる高野文子が、自己表現など軽く乗り越えてその画力ともども自由かつ大胆にイマジネーションを飛翔させた作品を発表してきたのに比べると、松本充代の作品においてはあくまで「自分」というものが表現の核にあり続けてきたようだ(念のため書いておくが、僕は彼女の作品が作者自身のノン・フィクションだと言っているのではない)。ただ、この両者の相違は、本当はどちらが上とか下とかいうものでもないし、徹底的に私小説的方向を突き詰めてくれればそれはそれで凄い世界に到達してしまう可能性もある。いやむしろそこまで行って欲しい。僕が感じる抵抗感は、松本充代の作品に常に感じる、ある種の「いじけ」というか、「厭世観」のようなものに向けられている。こうなってくると、何か個人的な愚痴を延々と聞かされているような嫌ったらしさまでもう目と鼻の先だ。この厭世観が更に嵩じて世界に対する白々とした透明な絶望にまで至ると、おそらく山田花子になってしまうのだろう。そうなったらもうこの世におさらばするしかあるまい(ではねこぢるはどうだったのか、という疑問も湧いてくるが、今は問うまい)。




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