作曲家・鈴木治行のコラム

今月の2枚
(1)ソニー・ロリンズ/Tour De Force(1956)
ソニー・ロリンズは、50年代当時のセロニアス・モンクやセシル・テイラーがそうであったような意味では、新しい何かを音楽にもたらすタイプの存在ではなかったし、いつの時代においてもそうであったためしはない。しかし、50年代のロリンズの音楽の豊かさの前では前衛性だの革新性だのといった言葉は既にして意味を失っている。大体50年代ならばロリンズの録音はどれを聞いても外れはないが、「Work Time」「ソニー・ロリンズ第2集」「Way Out West」あたりは一般的な名声通りに全くすばらしいし、おそらく一番有名な「Saxophone Colossus」にしたって、なんかミーハーなイメージが先に立ってしまうが、その内実の伴った遊び心は大人の余裕という奴に他なるまい。ロリンズといえばよく豪快さと結びつけられて語られる節があるが、ただ単にでかい音で勢いよく吹きまくるタイプと混同してもらっては困る。ロリンズの「豪快さ」の印象とは、その瞬間にやるべきことを、迷いなく最大限の効果で打ち出すことから来るものだろうし、それはまたインプロヴァイザーとしての、いやさ、演奏家としての最大限の誉め言葉なのではないか。50年代に花開いたハード・バップというジャズのスタイルに風穴を開け、革新するのではなく、ハード・バップを強く十全に、内側から満たしてみせた人物がソニー・ロリンズではなかろうか。それはまた、革新性の対極にありながらも、誰かが担うべき重要な役割でもある。
(Sonny Rollins/Tour De Force - OJCCD-095-2(Prestige 7126))
(2)ジェームズ・プロトキン/Aurora(1996)
実のところ、この人物ジェームズ・プロトキンの素性は全く分かっていない。プロトキンについてご存じの方は何か教えて下さい、ってなもんです。尋ね人みたいだな。で、その尋ね人の唯一の遺留品「Aurora」の特徴はというと、一応ノイズ・ミュージックと呼ばれることになりそうだが、音程感の弱いノイジーな音響空間が茫漠として広がっている。そうハイテクを駆使しているようにも思えないしライヴでやってやれないことはなかろうが、それにしてはいろんな音響イヴェントの入り方が割とキマッているところからして、おそらくテープ作品のように固定された形になっていると思われる。音響それ自体が魅力的なので聴けてしまうのだが、どの曲も、ベースになる音響パターンを作っておいてその上に現れては消えるエピソードが乗せられつながれてゆくところなどからして、やはりロック的な作り方でやってきた人物ではあるだろう。ところどころ反復的なビート感があったり、メロディの断片が漂ってたりするが、すべて最終的にははてしなく続く音響の渦の中に飲み込まれてゆく。ただし、音響の渦といっても「ペルセポリス」ではあるまいし、聞き手を有無を言わさず巻き込んでゆくような性格のものでも、また、耳を押さえたくなるような悪意的なフリーキー・サウンドという訳でもなく、むしろ心地よく環境音楽的にも聞かれうるところなどは、先月取り上げたイーノの「On Land」を想起させもする。

今月の公演
マグマ(7月1,2日−渋谷・On Air East、7月3日−名古屋・Club Quattro、7月5日−大坂・梅田Heat Beat)
まだ見えてない部分もいろいろあるし、マグマについて書くのは当分先送りにするつもりだった。だが、今回ついに来日してしまうというのだから、これはインフォーメーションの意味もあってここで取り上げない訳にもいくまい。特に現在のマグマについては全く知らないので、ここで書くことがこの度の来日では全く当てはまっていない可能性もある。そもそもまだあるとも思ってなかったのだが。まあいい、手持ちの材料の中で書けることを書くしかない。さて、70年代以降のフランスのロック・シーンにおいて、影響力の大きさという点ではマグマとゴングが二大巨頭ということになる だろうが、初期マグマを聞いて真っ先に感じるのは、既に言われていることだが、何といってもカール・オルフの強い影響である。リズムの強調されたオスティナートにコーラスが絡む。そしてテンションの高さは延々と持続し、押して引いて、というよりは常に押しっぱなし。リーダーのクリスチャン・ヴァンデールにとっては、音楽は移り変わっていくものではなく、むしろ一つの宗教的感情を体現するものであるらしい。その理念と緊張した持続のあり方は、彼も敬愛してはばからないコルトレーン(特にフリーに移行してからの)の音楽をあり方を彷彿とさせる。個人的には70年代末の「Attahk」が、やはり高いテンションながらも音楽の中に様々な線が走り多様性が見えていて最も思い入れが深い。

今月の2本
(1)特急にっぽん(1961東宝、川島雄三監督)
松竹の「喜劇・◯◯旅行」シリーズや東映の「喜劇・◯◯列車」シリーズが始まるのが60年代末であることを思うと、それらの草分けともいえるこの「特急にっぽん」は一時代早い離れ小島のような映画だ。後のそれら「旅行」シリーズや「列車」シリーズの重要な監督である瀬川昌治もかなりハチャメチャをやるが、ハチャメチャさ加減においては勿論川島雄三はやる時は半端ではない。「グラマ島の誘惑」やこの「特急にっぽん」はそんなハチャメチャな川島作品の中でもその度合いが群を抜いているように思う。さすがに「縞の背広の親分衆」まで行くとこれはまずいと思うのだが……。主演が鉄道会社に勤めるフランキー堺で、彼に結婚したい女性が絡むという設定も後の「旅行」・「列車」シリーズで踏襲されている。この映画での川島演出の冴えを一つ紹介しよう。列車内に時限爆弾が仕掛けられたというデマが流れ、ついにチクタクいってる固いものを探し当てるが、それはただの目覚まし時計だった。その一瞬、カメラはこの映画で唯一の、上空からの列車の俯瞰ショットになる。これが、列車の爆破シーンは昔から列車のフル・ショットで撮られてきた、という歴史を踏まえての見る者の引っかけであることは言うまでもない。現在、6/3より大井町・大井武蔵野館にて川島雄三の特集上映が行われており、どれも一見の価値ある映画ばかりだが、この「特急にっぽん」については6/25〜6/27に上映される。
(2)幸運の星(1929アメリカ、フランク・ボーゼージ監督)
「第七天国」で知られるボーゼージのもう一つの珠玉の作品、それがこの「幸運の星」。封切り当時は本国アメリカでも日本でも感傷的すぎると批判され、90年代に入って再発掘されるまで忘れ去られていたフィルム。だが、70年近い歳月を経た今、人々の眼が素朴なメロドラマ批判を越えたメタ・メロドラマの地点にまで行き着いたせいかどうかは分からぬが、ついに発見された「幸運の星」の美しさは世界中の映画祭で人々を驚かせた。ここには、未だ映画が映画自身を対象化していない良き時代の、物語ることへの全幅の信頼とその喜び/悲しみが結晶している。うす汚れた地味な娘を洗ってみると、嘘のように、そこにブロンドでパーマの美女が出現してしまう。後半、降りしきる雪の白さが望まぬ男の許へと嫁にやられる娘の情を映し出す(ここで我々はどうしても山中貞雄「河内山宗俊」のあの例えようもなく美しいシーンを思い出さずにはいられない。原節子が、身売りするかどうかでうつむいてじっと思い悩むシーンを。その原節子のフル・ショットにいきなり降り出す雪を)。そして何よりも、娘を救わんとして、両足が不自由だったはずの主人公の彼が何度も転びながら、ついに松葉杖を離して走り出してしまうところ。これを、そんな馬鹿な、とハナで笑うのは易しい。だが、これらの踏み越えられた現実性こそが、「映画の嘘」という奴なのであり、ここに泣けるかどうかが映画と真に遭遇できるかどうかのの重要な分かれ目なのだ。

今月のマンガ
水街(1990、ユズキカズ)
ただでさえユズキカズの単行本はそう多くはないが、僕の知る限りの「枇杷の樹の下で」「天幕の街」とこの「水街」の3冊はどれもみな、同じ世界を志向しているといえる。それは一種のユートピアであり、よく出てくる少年がこの世界の中では作者に代わってこのユートピアを全面享受する。根底にあるのは明らかにつげ義春だが、つげも含めて、同じくつげの影響下から出発した畑中純ともども、オール手描きから来る絵全体の非整合的な感覚が触覚的な、ぬくもりのある画調を導いている。畑中純もまたユートピア作家であったことを思い出してみるならば、マンガにおいてユートピアを実現するためには、定規やらスクリーントーンやらの己の身体性にとっての「他者」の存在しない100%手描きによる世界の造形が必要条件なのかもしれぬ。つまり、唯我独尊というか、自分に属する要素だけで世界のすべてができているという幼児期特有の心理状態にマンガの上で持っていくことが求められるのではないか。それはさておき、ユズキカズのつげとも畑中とも異なる独自の側面について見てみよう。まずもって、これ程「アジア」を濃厚に感じさせる作家もいまい。ここで言う「アジア」とは、温暖湿潤気候の東/東南アジアのことだが、町並みや、通りに向けて開放された家の 作りや、生い茂る植物(特に「瓜」!)、水、これらの道具立てがあの手描きの線と相俟って湿気の多く蒸し暑い風土を作品として実現することに成功している。そこに繰り広げられる他愛ない事件(という程のものでもないが)や性的な妄想の数々は、実は大して重要ではない。少しでも長くこのユートピアに留まれるためにこそ、作者は次から次へとエピソードを捻出して時間を稼ぎ、このアジア的ユートピアの様を描き続けるのだ。




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