作曲家・鈴木治行のコラム

今月の2曲
(1)四人囃子/空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ(1976)
日本のプログレの代表的バンド、四人囃子の質は初めから高かった。今や伝説と化したあの『一触即発』(1974)が処女作だなんて。最後に聴いたのが何年前だったか忘れたが、日常を歪んだレンズ越しに眺めたかのような末松康生のシュールな歌詞と、独特の粘着質のヴォーカルのラインとが融合した時にあのような不思議な化学反応が起きたのだろう。あの声のラインはまた、日本語のリズム感そのものから導き出されてきたものでもある。2ndの『Golden Picnics』は『一触即発』に比べるとだいぶカラッと乾いてきたが、やがてヴォーカル/ギターが森園勝敏から佐藤ミツルに代わって、四人囃子は更にカラッと晴れ渡った路線を推し進めるだろう(「ハレソラ」)。しかしやっぱり一番独自だったのは初期ということになろうか。シングルで出された『空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ』1曲の中には、初期四人囃子の最良のテイストが結晶している。ここでも末松康生の不思議な歌詞のイマジネーションは健在だ。森園のヴォーカルは発語もクリアで、雄々しいけれど全く「男っぽい」わけではない。断絶的なリズムの交替と転調によって声の入りまでを整える前奏も見事だし、全体の構成はセオリー通りではあるが全く無駄がなく、聴く者は、一陣の風があれよという間に鮮やかに吹き過ぎた後にポツンと一人取り残されてしまったかのような思いに至る。
(2)チェン・シャオヨン/弦楽四重奏曲第1番(1987)
一見根っからヨーロッパナイズされた前衛作品であるかのように見えながら、中国のチェン・シャオヨンの弦楽四重奏曲第1番からはどことなく中国的な匂いが漂ってくるのだが、それはどうやら中国語の抑揚を音楽に移し変えるという彼女の作法のせいらしい。彼女に限らず、今や民族的な要素もかつての五音音階の使用や民謡の借用といった段階からもっと抽象的な段階にとっくに変化してきているのだ。中国の伝統音楽にどのくらいポリフォニーの要素があるのかは知らないが、チェン・シャオヨンのこの曲は非常にポリフォニックで、「動機」というほどではないかもしれぬが、部分部分ごとに支配的な短い特定の音程の動き方の偏りが見られる。ある箇所などは2度音程のシンプルな反復の堆積が師であるリゲティの初期のクラスター音楽を思い出させたりもするが、全体としてはほとんどリゲティ臭い、というわけではない。ディアトニック、あるいはペンタトニック的な動きが見られても、それらが4つの楽器で重ね合わされた時には非常によくブレンドされコントロールされた無調の響きになっている。最初から最後まで緊張感が全くだれることなく持続されているのはさすが。もっと他の曲も聴いてみたいのだがなかなか機会がないのが残念。

今月の1枚
ジェフ・ベック/Jeff Beck Group(1972)
商業的な意味でヒット曲を持ったことのないジェフ・ベックだが、その理由は彼のどの録音を聴いても明らかだと言えよう。ベック(貞雄ぢゃないよ)の音楽は、純粋に音楽だけでできている。この『Jeff Beck Group』でいえば、個々のプレイヤーの技術の高さとロック・バンドとしての完璧なアンサンブル、それのみがこのアルバムを作り上げている成分なのだ。決して地味だとも難解だとも思わないが、一般向けのわかりやすさとは一線を画しているのだろう、きっと。彼のライヴを見たことはないが、例えば往年の3大ギタリスト(エリック・クラプトン、ジミー・ペイジ、ジェフ・ベック)の中でいっても、おそらく最もショー・ビジネス的サーヴィス精神に欠け、いつも自分の弾くギターのことやバンドの音楽の質のことしか頭にない音楽狂がジェフ・ベックなのだ。そしてその結果、彼のギターは異常なまでにうまく、残した録音はどれも質が高い。この『Jeff Beck Group』は、第2期ジェフ・ベック・グループとしては、これもすばらしい『Rough And Ready』に次ぐ2枚目だが、ボブ・テンチのヴォーカルも、前任者のロッド・スチュアートの欠けた穴を充分に補填している。彼のギター自体を聴きたいのであれば、数年後の『Blow By Blow』や『Wired』などのソロ・アルバムの方が全開!という感じだが、いささかフュージョンに接近したそれらよりも僕としてはまさにロック以外の何物でもないジェフ・ベック・グループものの方を取りたい。
(Jeff Beck/Jeff Beck Group - EPIC EK31331)

今月の展覧会
ホリー・ワーバートン(〜9月5日、石川町・パストレイズPG)
写真家には、カメラで現実を切り取ることに関心を示すタイプと、現実などはどうでもいい、と想像上の美の世界を作り上げようとするタイプとがあり、いわゆるconstructed photographの系譜の作家は皆後者だとは言えるが、それは必ずしも写真に人工的に手を施すかどうかとは関係がない。例えばベレニス・アボットの「科学写真」は物理現象の真実を写したというよりは、むしろ抽象的な美への関心から撮られたものだろう。さて、イギリス出身の女性アーティストであるホリー・ワーバートンは明らかに後者に属する。彼女は写真史が現在までに手にしてきた様々なテクノロジーを駆使して、己の内面にしか存在しない想像上の美の極致を追い求める。そこでの素材は決まって美しい女性だが、モデル本人を描写しようとか表現しようとかは少しも思わぬワーバートンは、モデルの体に色を塗りたくり、とことん装飾を施し、バロック的な背景の美術セットの中で撮影、更にオーヴァーラップ、近年ではコンピューターまでも導入して最終的な彼女の閉じた美の世界の実現を目指す。人間を素材にして似たような手段で徹底的に人工的な作品を作るという点では所幸則やピエールとジルを想起することもできるが、彼らの作品がどこかキッチュのチープな匂いを漂わせているのに対し、ワーバートンはもっとマジに大文字の「美」を信じている。そこで彼女のイメージの原型となっているのはおそらく、彼女自身熱烈に好きだというオペラの「絢爛豪華」な部分なのだろう。

今月の2本
(1)乱れ雲(1967東宝、成瀬巳喜男監督)
生涯に89本の作品を撮った成瀬巳喜男の最後の映画。成瀬というと一般的には淡々とした庶民映画というイメージになるのだろうか。しかし本来、動揺したり絶望したり憎んだりといった人間心理の修羅場においてこそその本領を発揮する作家なのではないか。舞台となる背景も、一番よく目にできる50年代以降の作品ばかり見ると当時の一般家庭が多いように思えるが、もっと初期から全時代的に眺めると全然そんなことはなく、それこそ作品の背景は問わない作家だといえる。黒澤明が全く心理描写ができず、アクションを機械に徹して描く時にこそその本領を発揮する作家であるのに比べると、成瀬巳喜男は徹底して心理描写の作家である。これ程心理の微妙な揺れ動きを繊細かつ的確にフィルムに定着できる作家というのもそうはいまい。それまでは事件の衝撃性などに映画の推進力を求めていなかった成瀬映画に変化の兆しが見られるようになってきたのは64年の『乱れる』からだろうか。これに続く晩年の最後の3本(『女の中にいる他人』『ひき逃げ』『乱れ雲』)では積極的に事件性とサスペンスとを映画に導入してゆくようになる。いわば、静まり返った池の中にでかい石を投げ込んみて、生じる心理の波紋を描写することに映画の生命が賭けられているような映画。この『乱れ雲』でいえば、幸福な家庭の主婦だった司葉子の夫が加山雄三の車にはねられるところからすべてが始まる。もう開巻の初めからして既に2人の間には拭い去りがたいトラウマが刻印されている。2人の結ばれ得ない関係が諦念の静謐に至るまでを、我々も最後まで看取ってやらねばならない。ここでは武満徹も最高の仕事をしている。8/19〜8/25、銀座・並木座にて上映。並木座もとうとうこの成瀬特集を最後に閉館となった。悲しい。今回これを取り上げたのには、並木座を看取る、という意味も込められているのだが。
(2)真珠(1945メキシコ、エミリオ・フェルナンデス監督)
メキシコ映画といえばどうしてもメキシコ時代のブニュエルのことを思ってしまうが、今一人の突出した重要な才能の持ち主がいて、それがエミリオ・フェルナンデスに他ならないのだった。僕が見た10本に満たない作品の中に外れが1本もなかったことは断言できる。メキシコ映画の全体像は見えていないが、まずもって、メキシコ映画史の中でも最高の監督の一人であることは間違いあるまい。フェルナンデスとよく組んでいたガブリエル・フィゲロアはブニュエルの『忘れられた人々』やフォードの『逃亡者』などの歴史的傑作をも手掛けた超一流のカメラマンだが、まあ、この2人が組んで並の映画が出来上がるわけはないのだ。『暗黒街の天使』にせよ『マリア・カンデラリア』にせよ、その白黒の深い陰影に富んだ画面の造形は見事と言うしかない。この『真珠』もまた、メキシコの自然と強い陽光を深い白と黒の中に刻み込んだ瑞々しい傑作である。物語的には、貧しいインディオの一家がいて、ある日でかい真珠を見つけ一挙に裕福になるが、真珠を奪おうとやってくる者どもとの闘いの中で子供も失い、ついに幸福はモノではないと知る、というような寓話的なもの。後半の、追手から逃れながら荒野を延々と行くあたりのシーンの荒涼とした孤独感は、前半の海のシーンを基調に据えた水気の多い潤いの風景とは対照的である。物怖じしない明確なコントラスト造形がフェルナンデス映画の瑞々しさの秘訣か。




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