今月の1枚
今月の展覧会
今月の2本
今月のマンガ
1997
1998
ジョン・ウォール/Alterstill(1995)
ジョン・ウォールの素性についてはよくは知らないが、この『Alterstill 』と『Fractuur 』での彼は、20世紀の前衛的な音楽の森の中をジャンルを問わず遊泳し、どういう基準で選定しているのかは定かではないけれどとにかく集めてきた様々な音楽の断片を緻密に組み合わせ、統一された新たな一つの作品を作り上げる。ウェーベルンからバートウィッスルから、そしてバール・フィリップスも池田亮司もジョン・ウォールによって料理されるまな板の上の素材の一つに過ぎない。本人も言うように、元ネタを当てるのは困難だしその必要はなく、その意味でこれは「引用」と言うことはできまい。文脈も背景も異なる音楽がコラージュされるところから、異質なものがつなぎ合わされるフランケンシュタイン的なものを予想すると当てが外れるだろう。構成が自然でつなげ方がうますぎるので、異物感がさして感じられず、ウェルメイドな作品に仕上がってしまっているのだ。もう一つのそう聴こえる理由は、いくらいろんな素材と言っても前衛的なものに限られているので、そこには間違っても民謡や歌謡曲やバロック音楽が入ってくる余地はない。素材の傾向を大まかにではあるが限定することで響きのある程度の統一感は得られたことだし、してみると彼ははなから異物のコラージュ的な音楽は目指してはいないのか。素材の範囲をもっと広げて異物感バリバリのコラージュをやられても、そんなものはジョン・ゾーンのカット&ペイスト以降さんざんやられてるし、今更また一つその手のものが増えてもだからどうした、ってなものだし。ウォールはだからこそあえてそうならないようにこれを作った、と善意的に解釈してもいいが、それが古典的にウェルメイドなcompositionになってしまっていいのか、という疑問はある。なかなか難しいところだねえ。
今道子(〜1999年1月29日、虎ノ門・フォトギャラリーINT'L)
グロテスクとユーモアが同時に混在する今道子の写真は、見る者を居心地の悪い思いにいざなわずにはおかない。今回の新作展はまだ見ていないが、今までのところ、基本的にここ10年間彼女のスタイルはほとんど変わっていないと言っていいだろう。全く異質なもの同士が力技で一体化される様は、ミシンと蝙蝠傘の出会いよろしくシュールレアリズム的だとも言えるが、彼女の写真全体から強く放射されるものはむしろ素材として扱われる「なまもの」の持つ生理的な触感に他ならない。その意味で、これほど視覚以上に触覚に訴えてくるタイプの写真も珍しい。この生々しさはほとんど嫌悪感と紙一重だ。ことさら女性性を強調したくもないけれど、どうも生理的な生々しさで勝負するとたいていの場合女性の作家の方がインパクトのあるものを出してくる、という一般的傾向はありそうだ。本当は生理的なインパクトが何よりも勝っているのに、それが例えばアルチンボルトを思わせもする歴史への言及性とシュールレアリズム的な言語操作によって不透明にさせられ、一ひねりされて屈折した表現として提出されているのだ。
(1)河内カルメン(1966日活、鈴木清順監督)
どーでもいいことではあるがこの欄に鈴木清順が登場するのはいつのことやらとあたかも他人事のように時折思わないでもなかったところ、今回久し振りに『河内カルメン』がレイトショー公開されるというので、薔薇を口にくわえ自転車を走らす野川由美子の表情やいきなり開いた壁のむこうから迫ってくるライトの眩しさのことなどを思い出し、衝動的にここに取り上げる気になってしまったというのが正直な話ではある。とにかく清順については言いたいことがありすぎるし、はっきり言って清順の映画がなかったなら今の自分の音楽はこのような形で存在していなかったことはあまりにも明らかであるので、この限られたスペースで言うべき事を絞るのはなかなかに苦労のいることなのだという事情は万人に分かっておいてもらいたい。さて、日活時代の清順映画で野川由美子の主演ものは3本あるが、その3本即ち『肉体の門』『春婦伝』『河内カルメン』についてもはや冷静に語る資格をハナから欠いている自分としては、逆に何から書けばいいのか戸惑うところではある。いわゆる「清順美学」という言葉はもっぱらカラー作品での色の使い方を指していたとは言えるが、ではモノクロ作品に清順の刻印はないのかといえば、もちろんそんなことは全くなく、それはこの3作の内のモノクロの2本、『春婦伝』と『河内カルメン』を見てみれば一目瞭然という奴なのだ。映画が虚構であることを隠蔽し本当らしく仕立て上げるのではなく、初めから虚構を虚構としてさらけ出し、虚構であることの中に遊ぶ清順は、例えば『河内カルメン』の中で野川由美子が同性愛の女先生の屋敷に住み込む1シーンで、いきなり屋敷の広間全体を明らかにセットと分かってしまう程に引いたロングのフル・ショットで捉えて見せ、踊り場の野川にいかにもステージでござい、のスポットライトまで当ててしまうというのだから、こういった人をコケにした演出が「真実らしさ」をこそ重んじるお歴々には疎んじられ、2年後の日活クビ事件にまでつながっていったのは一応理解はできる、納得はしないけれども。12/24よりオープンするシネマ下北沢にてレイトショー上映。
(2)闇と沈黙の国(1971ドイツ、ウェルナー・ヘルツォーク監督)
あまり話題にならないけれど、ヘルツォークの『闇と沈黙の国』は優れた盲人のドキュメンタリーである。同じ題材で我々はすぐさま近年のニコラ・フィリベール『音のない世界で』を思い出すことができるが、『音のない世界で』の持つある種不思議な軽やかさの印象は『闇と沈黙の国』においては希薄で、ことさら重く悲劇的には撮ってないにせよ、次々に出てくる人物達の存在の重さは大地に根の生えたような確かさを以てそこにある。例えば9歳の時に3階から落ちて後、やがて何年もかけてゆっくりと視力と聴力を失っていったある中年女性の、そこに至るまでの経緯が幼時の写真や家族写真と共に、本人の声によって訥々と語られてゆく。しかし、僕の知る限りこの作品はヘルツォークとしてはいささか異質なものに思われてならない。多くの場合、ヘルツォークはある極点としての「特別な」人間を設定する。それは『カスパー・ハウザーの謎』のカスパー・ハウザーや、『シュトローツェクの不思議な旅』のシュトローツェクであったり、『アギーレ・神の怒り』のアギーレだったりするのだが、彼のその「特別な」人間=超人志向、は、ヘルツォークがまた山の映画作家であることとも密接につながっているだろう。後年の山岳映画『彼方へ』はひどい出来だったとはいえ、テーマ的にはいかにもヘルツォークらしいものだった。ムルナウやリーフェンシュタールの『青の光』を出すまでもなく、ドイツには山の映画の伝統があるのだろう。山の頂点を目指す=超人志向の作家ヘルツォークに対比して今一人のアンチ山登り作家を挙げるとすれば、それはヴィム・ヴェンダースを措いてはいない。『まわり道』の、長い坂道を大きく弧を描いてゆるやかに下ってゆく人々を撮った長いシーンのすばらしさは、それが頂点を目指さぬ下降し脱力してゆくゆるやかな運動感そのものを体現していたからだし、『ゴールキーパーの不安』の全く無目的的な主人公の殺人とその後の場当たり的な動き方も、すべて頂点を失った──あるいは自ら捨てた──人間の反形而上学的身振りなのだ。なんか話がずれちゃったかなぁ?ま、いっか。
天才バカボン(1967〜1976、赤塚不二夫)
『バカボン』も初めの頃はまだ従来のコメディの許容域を守り、時折ホロリとさせもする人情喜劇とドタバタとの間を行き来する通常のギャグマンガであった。それがいつの頃からか、ギャグマンガ、あるいはマンガという約束事それ自体を笑いの対象とし始めるあたりから次第に過激化し、後期『天才バカボン』と『レッツラゴン』を含む70年代中期にはもはや引き返すことができない前人未踏の地点にまで至ってしまったのは、今読み返してみてもなかなかスリリングな「事件」であった。例えば、「絵」から成り立っているマンガの、その絵自体を放棄しすべて言語に置き換えてしまったり、わざと左手で描いたり、人物も風景も消えてゆき後には延々と何もない白いコマばかりが続いてしまったり、という具合に、マンガを成立させる要素、その文法それ自体を対象化、分解してゆく作業が推進されていった。それでもまだ初めはマンガの表現内部においての解体であったのが、やがて週刊誌という枠組みの対象化を経て作者自身の対象化から本人のパフォーマンス性へと拡大されていった。作者の名前を変更する、前号と全く同じものをまた載せる、同時に連載していた少年サンデーの『レッツラゴン』と少年マガジンの『天才バカボン』を入れ替える、といった具合に。ここまで来てしまった赤塚不二夫には、もはや従来のギャグマンガへと戻る道は残されてはいなかったろう。マンガの枠組みを徹底的に解体した後、赤塚マンガが急速に失速していったのは不可避な流れであった。それは、ここまで来たらもうこれ以上先へは進めないゼロ地点として、後は方向を転換するしかないマンガ界の「4'33"」のようなものだったと言えようか。
1996
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(c)1998 Haruyuki Suzuki