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1997
1998
ロバート・アシュリー/TVオペラ『DUST』(11月15日−神奈川県立音楽堂)
アシュリーの音楽の全貌は未だによく見えていないのだが、これまでに聴いたすべての作品がみな声=言葉に関するものだったことからすると、アシュリーがオペラという形に惹かれてゆくのも頷ける。数年前に日本でも上演された『Improvement』の舞台では、身振りより何より言葉の比重が大きかった記憶がある。それも、『Perfect Lives』然り『Yellow Man With Heart With Wings 』然り、主役を担うのは「歌」ではなく「語り」なのだ。確か60年代?の旧作『She Was A Visitor』でも、無調的な合唱の響きの層の上に乗っていたのは独唱ではなく「She Was A Visitor」というフレーズを無限に繰り返しつぶやいてゆく語りだったし。そして今回、オペラ・ハウスのオペラには現代アメリカ人の必然性はない、アメリカのオペラは居間で起こるべきだ、として1975年以降テレビ・オペラの制作に力を注いできたアシュリーの、日本で2本目のオペラ『DUST』が上演される。彼の目には、グラスやライヒやアダムスの劇場オペラは陳腐なものに見えているに違いない。そうすると我々は翻って日本におけるオペラの必然性とは何か、という問題に直面せざるを得なくなってくるが、ここでは話がそれるのでこの問題にはこれ以上は深入りすまい。今回の『DUST』は、前回の『Improvement』同様に吉原悠博が空間演出を担当しているが、前回は空間演出はともかく歌手(というより発声者か)の演出は、ただ終始一列に並んで立っているだけ、というスタティックなものだった。もし今回もそうであれば、そこにアシュリーの何らかの積極的な意図を見出すこともできるだろうが、僕としてはスタティックではない演技の演出の冴えを見たい。もう一つ、前回もだが、今回も歌手メンバーの一人として折角来日するジョアン・ラ・バーバラのライヴが全く企画されないのはなぜか。それとも僕が知らないだけなのか。これがいかにもったいない損失であるかを人は肝に銘じておく必要がある。
(1)ナン・ゴールディン(〜11月30日、渋谷・パルコギャラリー)
ナン・ゴールディンは以前荒木経惟とのコラボレーションを発表したこともあり、日本の荒木に対応するアメリカのゴールディンというように見られてきた節がある。本国アメリカでもこの対応図式が成り立っているのかどうかは知らないが。確かにこの2人には共通点はある。ゴールディンの言う「私の写真は人間関係であって、観察記録ではない。」という言葉は、そのまま荒木作品にも当てはまるだろう。シャッターを押す主体が被写体である人間の前に立っている限り被写体は無垢の存在ではあり得ず、そこには必ず何らかの撮る者と撮られる者との関係性が生成される。物が被写体である時にはこういうことは起こらない。従って、人物写真と非人物写真とではその位相は全く異なってくるのだ。そして当然のように、2人とも自分のよく知らない行きずりの人物にカメラを向けることはしない。ゴールディンの場合は身近な友人であったりし、荒木の場合は友人でなくとも、まず被写体と緊密なコミュニケーションが取れるくらい仲良くなる作業から始まる。このようなタイプの写真の場合、そこに映し出されるのは単に被写体の人物一人なのではなく、写真には写っていない不在のカメラのこちら側の人物=写真家、と被写体との関係性そのものなのだ。2人の写真が、他人にはおいそれとは見せない姿態を多く写し取っているのは、こうした理由による。しかし、ゴールディンの場合は自分も一員として中に入っている「社会不適応者」たちが対象になっている点が、荒木との大きな違いの出発点だろう。写真を撮るために仲良くなるのではない。ここにおいてゴールディンと被写体達の距離は限りなくゼロに近づいている。有名な、顔を殴られて片目の充血し腫れ上がった顔のゴールディンのセルフ・ポートレイトは、無化された距離を前提としてこそ生々しい衝撃力を持ってこちらに迫ってくるのだ。
(2)児島善三郎(〜11月23日、渋谷・松濤美術館)
1893年生まれの児島善三郎は日本の西洋絵画界の草分けの一人だが、同時代の多くの画家と同じように彼もまたフランスに留学した。彼自らも語っているようにセザンヌの影響は顕著であるが、むしろ同じくセザンヌからつながるマティスを思わせる瞬間もある。輪郭線と色面構成が強調され、遠近法はかなり弱められている。画面内の一つ一つの対象は平面的な形象に還元され、対象を細部まで綿密に具体的に描写するというよりは、色と形態を前面に押し出した全体の構成が最終的に眼に残る。しかし最後まで具象であることをやめなかった彼は、そのままキュビズムへの進路を取ることはなかった。同世代の多くの画家、あるいは作曲家がそうであったように、彼もまた、まず西洋芸術に携わる日本人としての自分を模索する、という大きな課題を引き受けないではいられなかったのだろう。モダニズムの流れのただ中に身を沈潜させるよりは、まず西洋美術を日本人である自分が実践することの意味付けを求めたい、という思いが優先された。かねてより、明治生まれの世代の多くの作曲家の「日本人らしさ」を強調する発言を聞く度に、どうも違和感が拭えなかったが、これはやはり世界との関わり方に関する世代的な意識の違いに由来する問題なのだろう。それはともかく、児島善三郎の晩年の一連の花の静物画はすばらしい。ある時は可憐、ある時は絢爛たる花の色彩がマティス的な平面性の中に拘束され、凝固させられている様は一見の価値がある。
上海から来た女(1946アメリカ、オーソン・ウェルズ監督)
パリに行くと案の定映画狂いに火がついてしまうのは如何ともし難いが、長い間その神話的な名前と評判が先行するばかりで、日本では全く見ることの叶わなかった伝説的なフィルム、オーソン・ウェルズの『上海から来た女』を今回やっと観ることができたのは、この度の渡欧での映画における最大の事件だと言ってよい。それもまた、『黒い罠』を思い出させる冒頭のクレーン移動から最後の有名な鏡のシーンに至るまで予想をはるかに上回る圧倒的な凄さで、もともとウェルズが天才的な作家であることは重々承知していたとはいえ、改めてその体躯のみならず存在の巨大さを思い知らされたのではあった。デビュー作『市民ケーン』(1941)以来、『偉大なるアンバーソン家の人々』『ナチス追跡』などなど技術的にもセンス的にも鋭角的挑発的かつ大胆不敵な作品を次々に作り出してきたこの不遜かつ誇大妄想の若造は、やがてハリウッドの鬼子として疎んじられ、未完の作品を連発するようになってゆく。そもそもが1938年にラジオで仕組んだ「火星人襲来」報道で全米をパニックに陥れたこの稀代の策士は初めから充分叩かれやすい「出る杭」としての資質を備えていたのだろう。自らのその資質を逆説的にさらけ出した後年の『フェイク』はその意味で興味深い。ウェルズのどの映画にも、「見ろ、これでどうだ!」と言わんばかりの自信と、それを単なるハッタリで終わらせない才能の裏付けがあるが、ウェルズ映画の体現する方向は自信に満ちた強い英雄とは逆に、立ちはだかる状況の前に敗北してゆく者の諦念の物語なのだ。
ワイルド7『灰になるまで』1,2(1977、望月三起也)
その昔、『野性の7人』から最終章『魔像の十字路』に至るまで、長年にわたって書き続けられていた『ワイルド7』は、「少年キング」の命運をそのまま一身に担っていた。いや、逆に「少年キング」は『ワイルド7』を世に送り続けるためにのみ存在していた雑誌だった、といった方が正しいのかもしれぬ。それが証拠に、『ワイルド7』連載終了後ほどなくして「少年キング」は当然のように潰れたのであった(たしか時期的にそうだったと思う)。『ワイルド7』の中に名作は多いが、特にと言えば『コンクリート・ゲリラ』『千金のロード』『首にロープ』『谷間のユリは鐘に散る』そしてこの『灰になるまで』あたりを挙げたい。長編の場合、初期と後期とで絵柄がかなり変化してしまう、ということはよくあるが、『ワイルド7』もその例に洩れない。だが、『ワイルド7』の場合は、『地獄の神話』あたりを分水嶺として作品内での力点の置き方が変化していった。つまり、『地獄の神話』以前と以後とで仮に前期『ワイルド7』と後期『ワイルド7』に分けるとすれば、前期はぎこちない絵柄ながらよく練られた物語性や凝った伏線の張り方などが特徴だったのに対し、後期になると絵的な上達に反比例してシナリオ的には逆に後退し、アクションの見せ場が強調されていったのは、出版社側の注文であったとしても、僕としてはいささか残念ではあった。さて、『ワイルド7』はある意味少年マンガの手本のような作品である。男性原理的な世界観のみならず、たたみ込むようなコマの連鎖がアクションを前へ前へと推進してゆく、その編集の見事さにおいて。徹底的なハードボイルドであると同時に随所に散りばめられたユーモアと抒情のアマルガム。試みにこの『灰になるまで』の冒頭の数ページをひもといてみれば、コマ割りとモンタージュ、省略の的確さの総体が最良のハリウッド映画のように見事にアクションを始動させている様を見ることができるだろう。この、アクションを始動させる職人の腕の冴えに比べれば、『ゴルゴ13』のアクションなどは児戯にも等しい。
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(c)1998 Haruyuki Suzuki