今月の1曲
武満徹/Valeria(1965, 1969改訂)
武満徹の円熟期の作品『Valeria』において、一見して最も人目を引く異質な点は電子オルガンの使用だろう。武満徹とオルガンというこの取り合わせはどうにもしっくり来ないし、事実、武満の作品でオルガンを使っているものはほとんどないのだが、それもまた故なきことではない。武満作品のタイトルに海や雨などの液体系の名前が入り交じり出すのには、『水の曲』(1960)を例外とすれば70年代中盤まで待たなくてはならないが、音楽の流体的な様相は既に最初期から現れていた。そういう特徴を持つ音楽において、オルガンのようにON/OFFで音が持続し、切れるデジタル的な楽器は非常に扱いにくいものであることは容易に想像できる。この『Valeria』のやや半ばにさしかかるあたりで、いきなりオルガンのソロがゴーッとコードで入ってくるのを聴く時の軽いショックは、そんな武満作品の文脈の中でこそ一層引き立つのだ。基本的には、初めから出てくるヴァイオリン、チェロ、ギターがまず一つのセットを為し、そこに後から加わる2本のピッコロがまたもう一つのセットとなり、最後に現れるオルガンがまた別の系を形作っているが、その3つの対照はそうあからさまに明快なものでもない。冒頭からのポスト・ウェーベルン的なテクスチュアが、オルガンの登場を境に一転してチェロの叙情的なカンティレーナに受け継がれる。しかしそれも再び横の持続を切り裂くような点描的な響きの中にかき消えてゆくのであった。初めは異質なものとして現れたオルガンが、やがて他の楽器と溶け合いそうで溶け合わなかったり、無調の点描的なテクスチュアの色合いが、ところどころ淡い調性感、叙情性でほのかにぼかされたかと思うとまた夢から覚めるように硬質な響きの中に埋没していったり、そのせめぎ合いがこの作品に飽きることのない豊かさを付与しているのだ。60年代後半から70年代にかけての武満作品の、こういった境界線上の微妙な往来から来る緊張感は、やがて、調性的な部分の比重が増すにつれて破れ、安定へと向かっていった。

今月の1枚
ミシェル・ペトルツィアーニ/Pianism(1985)
ジャズ・ピアニストには、コンボの方が面白くなるタイプとソロの方がいいタイプと2種類あって、ペトルツィアーニはおそらく前者に属するのだろう。ソロの方がいいタイプとは、体に沁み込んでいるリズム感が全く独自なセロニアス・モンクやセシル・テイラーのような人たちで、彼らが人とやると、結局その独特なリズム感が、他のプレイヤーの複数のリズム感と混ざって中和されてしまうために、全体として出てくる音楽はたとえ質が高くてもソロの時ほどはその独自性が十全には発揮されていないものになってしまう、という傾向はあると思う。もちろんこの2人のコンボものが聴くに値しないと言っているのではないので念のため。で、ペトルツィアーニのソロ・アルバム『Note'n Notes』も悪くはないが、彼のばやいは、むしろ『Pianism』のように小編成の気の合う仲間同士でやったものの方を採りたい。ん?ということは、つまり僕はペトルツィアーニが上の2人ほどはオリジナルではないと言っているのだろうか。80年代以降に登場したジャズ・ピアニストの中でも、ビル・エヴァンスの正統的な継承者としてのペトルツィアーニのレベルはかなり高いものであることは間違いないのだが、結局「いつか見た風景」の洗練されたコピーの域を大胆に踏み越えてゆくことがなかなかできないのは、彼のみならず80年代以降のジャズ全体に関わる深刻な問題だといえよう。若手ジャズメンのその傾向はおそらくウイントン・マルサリスの成功によって正当化され現在に至っているのだが、あくまで「ジャズ」の中に留まろうとする限り打開策は見つかりそうにない。アカデミックな現代音楽、前衛音楽の直面している問題と全く同じ状況をそこに見出すことができよう。実は90年代以降の彼の音楽を聴いていないので、その後ペトルツィアーニがどうなったのかは知らないのだが、この度の突然の逝去に対し、ここで取り上げることで追悼としたい。

今月の展覧会
佐藤時啓(1月11日〜2月20日、銀座・ギャラリーGAN)
佐藤時啓の写真は「美しい」。長時間引き延ばされた露光の結果として、風景から人物の姿は消滅し、あとにはあたり一面に散乱する光の粒子、あるいは複雑に絡み合った何重もの光の束が残る。無人の薄闇の風景の中、それら無数の光の粒や光の束の乱舞する情景は夜空に浮かぶ街のネオンのように幻想的だし、とにかくその眼を奪う美しい光の形態を見つめているだけでもいいのかもしれない。佐藤時啓はもう何年もの長きにわたってこのスタイルの中で作品の洗練度に磨きを掛けてきた。そして、彼のこの美の洗練、光のシャワーを浴びたいファンの期待を今回の個展もまた裏切らないものになっていることは保証できる。だが、とここで一言口を差し挟まずにはおれないのがこちらの性分なのであるが、この、これ自体で完結し安定した「美」のありようは、それを観る我々に一体何をもたらすのだろうか。この問題は拡げると大変なことになってしまうのでなるべく簡潔に済ませたいのだが、要するに、期待に過不足なく応えてそれ自体で充足し、閉じてしまう表現というものが、そのノイズ性のなさ故に結局人々の日々の疲れを癒す「慰め」や「娯楽」以上のものにはならない、ということについて、問いを投げかけたいのだ。例えば前に取り上げたナン・ゴールディンや今道子の写真の居心地の悪さは、それらが観る者に一瞬の主体の分裂を強いているが故に観る「意味がある」ということで、芸術の存在意義なんてものがあるとすれば結局そこにしかないだろう。それは言い換えれば、表現の中に批評性があるかどうか、ということでもある。批評を欠いた表現はただ醜悪なだけだ。かくして、少なくとも居心地のいいものだけは作るまいという意志だけは今後とも変わることはない。

今月の2本
(1)エドワード・ヤンの恋愛時代(1994台湾、楊徳昌監督)
かつては、欧米人にとってアジアの映画といえば日本映画を指した時代も存在したが、今や状況は完全に変化した。現在のアジアで、その新作1本1本が世界の熱い注視を浴びる作家を擁している国といえば、まずイランと台湾を挙げねばなるまい。しかし、イランのキアロスタミの『桜桃の味』の示す彼のこれからに不安を感じざるを得ないことからすれば、台湾の2人の世界的作家、侯孝賢と楊徳昌の全く揺るぎない現在の方に分があるようだ。あの小さな島国から、2人も単なるエキゾチズムとは無縁の真に現代的な作家が出てきたことにまずは驚く。この2人に比べてしまえば、香港のウォン・カーウァイだってほどよくファッショナブルで器用な「いまふう」の作家に過ぎない。でも『欲望の翼』は好きだけど。いまやドライヤーの高みに一歩一歩近づきつつある『フラワーズ・オブ・シャンハイ』の侯孝賢に対し、楊徳昌は世界的にも稀な、システマティックな資質を持った映画作家である。『恋愛時代』では、多数の登場人物がコマのように盤面の上をあれこれ行き来し、それぞれの関係性が壊れたり新たに生成されたりする様が我々の前に繰り広げられてゆくが、そこでのルールは「2」が基本になっており、多くの場合、画面に同時に現れる人物は2人なのであった。その人物の組み合わせを常にパズルのように変化させながら、「2」がミラーボールのように無限変奏されてゆく。しかし、彼を単なる冷たい無機的なモダニストだと早合点してはならない。個々の演出は役者の肉体をしなやかさの彼方へとどこまでも解放してゆき、どの一瞬たりとも役者の身体性、映画の呼吸感を無視してシステムが一人歩きすることはない。1/23〜1/29、BOX東中野にてモーニングショー上映。なお、1986年の『恐怖分子』(これも必見)も1/22まで上映中。
(2)白い婚礼(1989フランス、ジャン・クロード・ブリソー監督)
この映画のフランス本国でのヒットの多くの要因が主演のヴァネッサ・パラディにあったことは疑いないが、確かにここでのヴァネッサ・パラディは他の同年代のどのフランスのアイドルとも取り換えのきかない独特な小悪魔的存在感を無意識のうちに身にまとっていた。前作『かごの中の子供たち』に続いて出演しているブリュノ・クレメールの中年教師が、教え子のパラディと恋愛関係の深みにはまって破滅してゆくという物語において、そこにいるだけであたりに道ならぬ危険な香りを波及させてしまうパラディの存在感の強さは特筆に値する。もっとも、これはこの時の彼女の実年齢自体が持っていた体臭のようなもので、やがて年と共に失われてゆく宿命なのではなかったか。ブリソーの映画は常に商業映画の枠を逸脱することはないが、時折、先行する映画史からつながる確かな糸が垣間見えるところで基本的には信用している。この『白い婚礼』の中で、校舎の裏で逢い引きする遠景の2人に対し、気づかないまま現れてまた去ってゆくフレーム手前に足だけ映る他の先生の演出は、まさにヒッチコック的サスペンスの継承だし、何よりもこの映画全編に色濃いのはトリュフォーの影であろう。特に、トリュフォー晩年の傑作『隣の女』を思い出さずにこの映画を見ることはできない。まず「破滅してゆく道ならぬ愛」というモチーフが全く共通だし、主人公の名が共に"マチルド"であること、そして何より、『白い婚礼』で2人の関係に気づく同僚の先生役に、『隣の女』で悲劇の物語に観る者をいざなう語り部として重要な役を演じていたヴェロニク・シルヴェールが起用されていること、などからしてこの映画がブリソーからトリュフォーへの意識的なオマージュであることは間違いあるまい。




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