今月の展覧会
今月の1本
1997
1998
ヘルムート・ニュートン(〜5月9日、赤坂・東京写真文化館)
ファッション写真の大家ヘルムート・ニュートンの作品は、気をつけてさえいればそう滅多に見られない、というわけでもない。そして、実は僕自身はニュートンの写真を単純に好きだとも言えないし、むしろあのあくの強さが煙たいこともあるのだが、それでもあの才能が圧倒的であるのは疑いない。例えば、ハイヒールを履いた足首を撮った80年代の写真があるが、たったこれだけの限られた素材なのに既にニュートン以外の誰でもあり得ないものになっているのは驚きである。ニュートン的女性、というものが存在する。完璧な美貌と完璧な身体を持っているが、マネキン人形のように彼女らの個人的な部分は完全に抹消され、隠蔽されている。また、ニュートン的ポーズ、というものもあるだろう。多くの場合、ニュートンの女性らは手首を腰のくびれに当てたりなんかして、背筋をピンと伸ばし、胸を張る。日常生活においては、このようなポーズを取る必要はまるでないし、特にヌードでそれをやる状況というものは考えられない。彼女たちのそのポーズは誰のためのものなのか?何に奉仕するものなのか?答えは明快、彼女らはニュートンの美の神殿に捧げられる供物として、生活臭をこうして剥奪され、洗い浄められてニュートン作品の素材として差し出されるのだ。建物や窓枠その他の効果的な使用による幾何学的直線の強調があるかと思えば、何かの映画の1シーンのようにも見える謎めいた演出による「意味性の撹乱」という具合に、持ち札は多彩かつ大胆、そんなヘルムート・ニュートンも今年79歳を迎える。
グロリア(1980アメリカ、ジョン・カサヴェテス監督)
カサヴェテスの映画ほど、ハリウッドから遠く隔たった映画もない。アメリカにおける劇映画で、ハリウッドとは全く異なる土壌から出てきたその最大の収穫がカサヴェテスであることは間違いない。生涯役者と監督の2足のわらじを履き続けたカサヴェテスは、役者で得た収入を自分の作品の制作につぎ込むことによって映画を撮り続けてきた。それでも残された本数が12本という少なさなのは、彼自身の性向が元々そうなのか、はたまた制作費の問題故か。第1作目(にして既に傑作)の『アメリカの影』(1959)以降のカサヴェテスの映画すべてに共通する特徴はラフなフレームの切り方と役者の演出の自由さだが、徹底的に「編集の映画」としての伝統を貫いてきたハリウッドに対し、「俳優の映画」というスタンスを貫いてそれで偉大な成果を収めたのがカサヴェテスなのである。丁度彼が映画を撮り始めたのと同時期に大西洋のむこうフランスではヌーヴェルヴァーグが勃興していたが、奇しくも両者ともに似たような問題系を共有していたのは興味深い。何となく彼の映画を見ていると、「彼の映画は、カメラを持ちさえすれば誰にだって映画は撮れる、という気にさせてくれた」というスコセッシの発言もあるように、なんか適当にカメラを振り回していれば映画はできる、という風に思えてくるというのも、わからなくはない。そこで勘違いして適当にカメラを振り回して撮られてしまった駄作というのも世界中には相当数あるに違いない。このやり方は、メソードがないだけに余程の優れた感覚と才能がないとうまく行かないのだろう。カサヴェテスといえば妻の女優、ジーナ・ローランズで、もう彼女さえ出ればどんな映画でもすばらしく見えてしまうというこちらの偏向を差し引いても、今回久々にリバイバルされるこの『グロリア』はポピュラリティも備えた必見の作品。4/24より、シネセゾン渋谷にてレイトショー上映。
1996
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(c)1999 Haruyuki Suzuki