今月の展覧会
今月の2本
今月のマンガ
1997
1998
1999
アニッシュ・カプーア(〜5月27日、谷中・SCAI THE BATH HOUSE)
カプーアの近年の世界的な評価は目覚ましいものがあるが、全くテクノロジーと無縁である彼の作品は、実はその外見とは逆に、原理的にはジェームズ・タレルに近い。つまり、通常の人間の知覚を撹乱することによって得られる認識の不可能性から宗教的な崇高の感情に到らしめる、という点において。タレルの場合はそのための手だてがテクノロジーだったわけだが、カプーアの場合は、主に彼自身の故郷インド(彼の血の半分はインド人である)の特殊な顔料の使用によってそれを実現する。科学的なことは分からぬが、その顔料は光を吸収する性質を持っているらしく、それの塗られた表面からは光の反射が極度に抑えられ、従って人はその表面を表面として認識できない。今回の個展でいえば、画廊の床にきれいな正方形型にこの黒い顔料が敷かれていて、黒の表面が知覚できないために、よくよく見ないと、まるで床に正方形の穴がポッカリあいているかのように見えてしまう。誰かの感想で、「画廊の床に深い穴をあけてしまうなんて凄い!」というのを読んで思わず笑ってしまった。「形には関心がない」というカプーアは、この仕掛けを最も効果的に実現するために逆算して形態を決めているに違いない。これまでのパターンでは、くぼんだ凹面、というのが多かった。この凹面に顔料が塗られていると、まず、凹面であるが故に光も直接当たりにくくなるし、「覗き込む」という体勢が見る者を感覚の失調状態に誘い込むのに向いている、ということなのだろう。昨年秋にパリのサルペトリエール教会でやっていた新作展では、3つのでかい凹面鏡がデ〜ンと置かれていて、顔料は使われていなかったが、その凹面鏡の表面が微妙に歪んだ形で周囲を反射するので覗き込むとやはり目の感覚が失調する、というものになっていたっけ。
(1)戦争のない20日間(1976ロシア、アレクセイ・ゲルマン監督)
「雪解け」以前のソ連で、撮る映画撮る映画がことごとく上映禁止処分を喰らってきたゲルマンにようやく陽の光が当たったのは、そう古いことではない。そのせいと、おそらく本人の資質もあって、これまでのところ作品数は5本しかないが、1982年の『わが友イワン・ラプシン』以来16年振りに完成した新作『フルスタリヨフ、車を!』でも徹底して厳しい、一切の妥協のない姿勢は全く変わっていなかった。ゲルマン映画の峻厳な印象は、一つは全く無駄に選択されていない、倫理的とさえ言えるカメラ・ワークから来る。対話する人物の、切り返しを避けフィックスの長回しで撮られたショットに対しての、列車の移動撮影での流れてゆく風景の対照の鮮やかさ。それまでのスタティックな暗い部屋のシーンが途切れたかと思うと、一転して明るい部屋に入ってゆく男の視点からの、なんと手持ちカメラ撮影の不意打ち。この『戦争のない20日間』は、題材的には、戦場から休暇をもらって一時田舎に帰った男が愛する女性と別れて再び戦場に戻るまで、ということで、ロシア映画の古典名作『誓いの休暇』に似ているが、ゲルマン作品と比べると、『誓いの休暇』がなんとセンチメンタルに見えることだろう。こちらも好きだったんだが。しかし、終始厳しい冷気で貫かれている映画だからこそ、戦場に戻る直前の2人の最後の食事を窓の外から見つめたシーンの抒情が、より純度の高い透明度を伴って結晶するのだ。ここにかぶせられるアコーデオンの音楽のすばらしさも特筆もの。5/27〜5/29、お茶の水、アテネ・フランセ文化センターにて上映。
(2)続清水港(清水港代参夢道中)(1940日活、マキノ雅弘監督)
6年前、渋谷・ハチ公の交差点。信号待ちをしていて唐突に目に入ってきた「マキノ雅弘死す」の電光掲示板ニュースにある重いショックを受けたのはなぜだったろう。「日本映画の父」マキノ省三の実子であるマキノ雅弘は、文字通り「日本映画の父の子」即ち「日本映画」そのものの代名詞と言える重要な存在であるのみならず、その後の日本映画の状況全体に図り知れない影響を与えた。マキノ雅弘を語るとは、つまり日本映画を語るに等しい。生涯に残した映画の数261本というだけでも驚異的だが、現存する作品のどれを見ても確かな職人芸とともに早撮りのみずみずしい疾走感が充溢している。その作品の大部分を時代劇に、そして晩年はヤクザ映画に捧げたマキノだが、特に「次郎長もの」は大好きだったようで、一体いくつ映画化したのやら。この『続清水港』もそのうちの一つだが、ここでのマキノは完全に「次郎長もの」をパロディ化して遊びに遊んでいる。今やカルト映画の古典として知る人ぞ知る前年の『鴛鴦歌合戦』も遊びに遊んだぶっ飛びの傑作だが、こうした映画がよくもまあこんな時代に撮れたものだとつくづく思う。この『続清水港』では、現代の演出家である片岡知恵蔵が「次郎長もの」の芝居の演出をしているうちにいつの間にか自分が森の石松になって江戸時代にワープしてしまう。しかもストーリーは石松が殺されることになっている金比羅参りのシーンへと刻一刻と近づいてゆくのだ、さあどうしよう!おあとは見てのお楽しみ。教えてあげないよ、ジャン! ところで、マキノの「次郎長もの」では、いつも最後は絵に描いたような富士山と茶摘み女たちの風景+ちゃっきり節でシメる、というのが嬉しい定型になっているのだが、この映画でも、ラストは再び現代に戻り、ちゃんと茶摘み女たちが舞台の書き割りの富士山の前で踊ってシメてくれるのはさすが。そうこなくっちゃ。6/4、千石・三百人劇場にて上映。なお、この作品を含む「成瀬巳喜男とマキノ雅弘」特集計58本(内、マキノ作品は30本)は6/6まで連日上映。
象魚(1994、逆柱いみり)
絵からして紛れもなくガロ系のマンガ家である逆柱いみりの拠って立つ原点はつげ義春だが、思えばガロはつげ的な作家を一体今までに何人輩出したことだろう。すぐにいなくなった人も含めればかなりの数に上るのではなかろうか。つげ義春からの影響の受け方にもいくつかのタイプがあって、一つはまず絵柄そのものが影響を受ける、というタイプ。それから、「無目的性」とか「無気力さ」という点において影響を受けるタイプ。あるいは、特に『ねじ式』や『必殺するめ固め』などのシュールレアリスティックなイメージにおいて影響を受けるタイプ、などがある。これらのタイプで考えてみると、つげの影響圏は現在のマンガ全体においても実は結構広いのではないか、という気がするのだが、これ以上のつげ話はまたいずれつげ義春作品自体を取り上げた時のために取っておくとしよう。で、逆柱いみりだが、彼の場合はシュール性における影響が最も強く、次いで絵柄もそれなりに、という感じになるだろうか。つげ忠男や鈴木翁二みたいなロマン性はなくもっとドライだが、50〜60年代的な下町の風景に加えてその陰影の濃い手描きの線が常にいつか見たような懐かしさを醸し出している。そして、展開に一貫性はなく手掛かりになるのは触覚的と言い得るような名状しがたいなまなましい感覚。宙に放り投げられた金魚や、のどから生えた長い毛、ジャングルのように謎めいた機械類が複雑に絡まり合う工場、などの描写は、決して「作者の内面表現」などという凡庸さに回収されないカラッとポップな形象でありながらも、でも何かのアレゴリーにも見えてしょうがない、というところで読者はどこまでも不安定に宙に浮き続けるのだ。
1996
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(c)1999 Haruyuki Suzuki