今月の1曲
石川さゆり/暖流(おそらく70年代)
石川さゆりファンには睨まれるだろうが、正直なところ、彼女には是非演歌から洋ものポップスにも進出して欲しい、というのがかねてよりの希望なのであった。はっきり言って、彼女の場合はポップス歌手としては実力があるのに、普段のレパートリー曲にひどいのが多すぎる。しかし現実問題として、今の「男を立てる日本女性の鏡」的なイメージを捨てないと新天地への進出は難しいだろうし、それはとりもなおさず今のファンに背を向けることになるので、いろいろと障壁は多そうだ。だが、少数ではあるが彼女の歌った演歌ではないポップスはすばらしかったので、どうしても希望を捨てきれない。ただ、断っておくが、演歌だからといって自動的によくないわけではもちろんない。ここで演歌論を展開する気はないが(非常に興味あるテーマだが)、例えばかの『天城越え』は謡曲のキッチュとしてとても面白いし、演歌を作曲作品として捉えると音楽のボキャブラリーの狭さからして変わったものが出てくるのは難しいとしても、そのステレオタイプの上に乗っての歌唱の展開の仕方如何によっては眼を見開かされる音楽的瞬間が確かにあるのだ。ここで『暖流』を挙げたのは、これが曲として特にどうということではないが、この中での石川さゆりの歌唱が希有の表現を獲得する瞬間について語りたいために他ならない。最後、3巡目の歌詞で「私ハラハラ〜」と歌われる時のある線の細いはかなさの現前は、一体これは何なのだろう。1番目の「私しんみり〜」や2番目の「私ぼんやり〜」では何ともないのに、あの線の細い声質で、あのフレーズであの歌詞が歌われる時に偶然にか、ある予期し得ぬ化学反応が起こってしまったのだ。以前、ここの絶妙な化学反応が前後の流れの中で引き起こされているのか、それともこの瞬間だけの諸要素の結合によるのかを調べようとして、サンプラーでここだけを切り取って単独に繰り返し聞いてみたことがあったが、やはり効力は薄れてはいなかったことを思い出す。

今月の1枚
セシル・テイラー/ソロ(1973)
セシル・テイラーを初めて聴いたのがこの来日公演の『ソロ』だったが、後から振り返れば非常によい出会い方をしたものだと思う。僕の考えでは、モンクやテイラーは、人との共演ではないソロでこそその独自性を最もあらわに見せる。その理由は、おそらく他人が合わせようのない独自のぎくしゃくしたリズム感が彼らの音楽の重要な側面を担っており、それは人との共演では他者のそうでないリズム感によってやや中和されてしまう、ということなのではないだろうか。もちろん、コンボがダメだということはないし、テイラーでいえば『Conquistador』や『Inovations』を初めとするアンサンブルの名作にも事欠かないのだが。それでも、全く薄められることのない強烈な独自性、ということでは『Solo』『Indent』『Air Above Moun tains』などのソロを挙げたい。さて、テイラーのピアニズムについては、よくバルトークの影響、ということが言われる。確かにピアノの打楽器的使用、という点ではそれは的外れではない。だが、先にも述べたように彼の真骨頂は打楽器的打鍵それ自体というよりもその独自のぎくしゃくしたリズム感にあり、もしこれを厳密に譜面に指定したら恐ろしく複雑なものになるだろうし、仮にその譜面を完璧に再現するピアニストがいたとしても、それは既に元々のテイラーの演奏のようにテイラーの身体的な自然から出たものではなくなってしまっている。だから、テイラーの音楽は記譜しようのない身体性、という点でバルトークとは明らかに異なるのだ。山下洋輔の即興がスケール的になる傾向にあるとすれば、テイラーの即興はむしろ非連続的なブロックのゴツゴツした連鎖、という様相を呈する。そのブツ切りの切断力の強さは今以て魅力的だ。

今月の展覧会
神山明(〜7月31日、世田谷区下馬・島田画廊)
最近の神山作品がどう変わってきているのか、あるいはいないのかはあまり定かではないが、僕はかつて神山作品がちょいと好きであった。彼の作品は、ニスを塗り込んだ茶色の木の肌合いをしていて、ミニチュアの建築物のような外観を持ち、覗き込むと中には何かの家具のようにも見える用途不明のこれも木製の小さなオブジェが並べられている。覗いている自分は童話の世界に迷い込んだ巨大なガリバーのように、その世界の住人たちのすむ家の中を彼らの留守中に覗き見ている、ということになるのだろう。ここで肝心なのは、例えば明らかに椅子とか机だとわかるミニチュアを置いてはいけない、ということ。そこまでやってしまうと、もう完全にただのミニチュアの家でしかなくなってしまい、つまり解釈が一通りに限定されてしまう。用途不明の、家具のようにも見えながらしかしただの抽象的なオブジェにも見える、という曖昧なあり方がかろうじて童話的な雰囲気をそこはかとなく漂わせるというはかないあり方を可能にしているのだ。この世界には住人の姿はない。人がすべてどこかへ消えてしまって、後に残された「家具」や「家」はただ静止した時間の中に存在しているだけだ。実は神山作品のポイントはメルヘンでも懐かしさでもなく、「時間」なのではないか、とひそかに睨んでいるのだが。彼のこの作風は現代美術のモダニズムとは違ったところからつながってきているものだが、一歩誤るとただの、誰でも安心して消費できる「懐かしくてかわいい」ミニチュアハウスでしかなくなるだろう。それでもいいというのならいいだろうが。奈良美智ともども、この危うい線上をゆく彼の今後の歩みを見せてもらおう。

今月の2本
(1)近松物語(1954大映、溝口健二監督)
溝口映画は全時代通じて観るに値するが、50年代の諸作は今さらここで言うまでもなく世界映画史上の最高の達成の一つであることを改めて確認するために、これと、あと『山椒太夫』を観にフィルムセンターに駆けつけるのもまた良き哉。50年代にヨーロッパは黒澤、衣笠、溝口によって初めて日本映画を「発見」したわけだが、「われわれフランス人の知っている日本の映画人のなかで、ひとり彼だけは、エキゾチズムという、魅力的だがより低次元の段階を決定的にのり越えて、より高い水準に達している。」というゴダールの当時の慧眼はさすが。溝口と黒澤の差はクセナキスとペンデレツキの差に等しい。さて、溝口映画に共通するある「絶対的」な感覚のことに思いを馳せずにはいられない。それは、時間が不可逆的なものであることを残酷なまでに人に思い知らしめる。すぐにも手が届きそうなくらいのほんのわずかな過去であるのに、それはもう決して戻っては来ない。一定の速度で回ってゆく歯車に引き込まれるかのように、人は溝口映画の中で冷徹な時間の歯車の中にゆっくりと、だが着実に飲み込まれてゆくのだ。そしてそれはしばしば螺旋形を描く。この『近松物語』でいえば、初めの方で、不貞の罪で町内を引き回され獄門に掛けられてゆくカップルの姿を眺める香川京子と使用人の長谷川一夫の姿が描写される。ほどなくして故なき誤解から家を飛び出して旅に同行することになる2人はやがて恋人同士になるのだが、まず不貞の罪という「火のないところの煙」があって、その穴に後から人間が避けようもない運命のように落ち込んでゆく、という近松十八番の逆転した運命論的構造は、思えば溝口作品と共振しないわけもないのであった。そして最後の場面、ついに捕らえられた2人が死罪を前に町内を引き回されてゆく。ついさっきはただの傍観者として他人の町内引き回しを見ていた2人が、今は当事者として引き回されてゆく。こうして映画は螺旋のようにはじめに見た風景へと戻ってくるが、その意味は決定的に違っており、もはや絶対的に元へ戻ることはできない。この時間の不可逆性の残酷さに耐えることこそが、溝口映画を観るという体験なのだ。7月29日、京橋・フィルムセンターにて上映。
(2)顔のない眼(1959フランス、ジョルジュ・フランジュ監督)
年齢的に言うと、メルヴィルなどヌーヴェルヴァーグの一つ前の世代に当たるフランジュだが、長篇デビュー作『壁にぶつかる頭』を撮ったのが遅くて1958年なので、結局ヌーヴェルヴァーグとほぼ歩みを同じうした結果になった。なぜか日本ではほとんど公開されていないようだが、フランジュの極めて美しい悪夢のような幻想世界は一度観たら忘れがたい。この『顔のない眼』は、やけどで二目と見られぬ顔になってしまった娘が、条件の合う娘を次々にさらわせてきて、顔の皮膚を剥ぎ取って移植手術を繰り返してゆく、というホラー映画だが、動物の効果的な使い方といい、ゴシック・ロマン的な語り口といい、見事な出来映えといえよう。ラストで、自らすべてを破壊して夜の闇に消えてゆく主人公の肩の上に、奇跡としか思えないような自然さで小鳥が舞い降りるのは、あれは1カットで撮っていたはずだし、一体どうしてああいう演出が可能だったのだろうか。この映画への神の恩寵としかいいようがない。白いツルツルのセルロイドのような人工の皮膚の顔で現れる彼女を初めて見る時はギョッとするが、実際のところ、最近では鈴木その子を見る度に『顔のない眼』のことを思い出さずにいられなくなってしまっているのだった。でも、「その子もフランジュにびっくり」というよりも「フランジュもその子にびっくり」と言う方がより実感に近いところが我ながらコワい。これもまた余談だが、楳図かずお作品にしばしば現れる顔の皮膚を剥ぎ取るというモチーフはフランジュ経由のものなのだろうか、というのが前から気になっているところ。




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