1999 12

今月の2枚
ジョアン・ラ・バーバラ/73 Poems(1994)
ジョアン・ラ・バーバラは言うまでもなくアメリカの優れたヴォーカル・パフォーマーだが、同じアメリカでもメレディス・モンクともディアマンダ・ギャラスとも全く異なったスタンスに立っているのはいいことです。今、あまり深い意味もなくとりあえず名が出てしまったこの3人で比較すると、アメリカ実験音楽から直接つながるのはモンクとバーバラで、ギャラスはむしろ表現主義的という点では世紀末ヨーロッパに近い。ではモンクとバーバラは同じかというと全然そんなことはなく、確かにミニマリズムとの因縁が浅くないという点では似ているけれど、モンクがミニマル・ミュージック+民族音楽+ダンスという路線を継承しているとすればバーバラはもっと実験音楽のルーツの部分に近く、ケージ+フェルドマン+アシュレー+旦那のスボトニック、ということになるのでしょうかねえ。モンクがほとんど声+αでアコースティックに押し切るのに対し、バーバラはと言えば、多重録音も電気的操作も全く厭わないあたりに音に対する意識の違いが現れている。つまるところ、モンクがあくまで生のステージを前提としているのに対しての、バーバラのテープ作品として初めて完成するかのようなアプローチの違い。このことを確認する意味でも、彼女の生のステージがどうなっているのか、是非一度観てみたい。これまで日本で観れた彼女のステージは、いつも人の作品においてばかりだったので。そしてこういった電気的アプローチは主にスボトニックとアシュレーの影響なのだろう。さて、この『73 Poems』は詩人のケネス・ゴールドスミスとの共同作業だが、ゴールドスミスが作った視覚的要素の非常に強い「詩」73篇に対してバーバラがそれらを一つ一つ「音響化」している。詩の方は、一部しか見ていないがどうも単語とか文字の羅列のようで、およそ言葉による物語性の創出は行っていず、それがまたバーバラの日頃の音響的/非物語的アプローチと歩みを一にしている。時として直訳的にすら思えもする詩の音響への翻訳作業だが、その手つきに迷いがないので説得力に欠けることはない。迷いがないというのは大事なことですね。
(Joan La Barbara/Kenneth Goldsmith "73 Poems" LOVELY MUSIC LCD3002)
エリック・ドルフィ/Far Cry(1960)
エリック・ドルフィはサックスを吹いてもフルートを吹いても全く素晴らしいが、ジャズの歴史的な位置づけで言うとなかなか収まりが悪い人物なのではなかろうか。ハード・バップ全盛期に世に出た彼の音楽は、ミンガスのグループにいたこともあって確かに時代の洗礼を強く受けてはいるが、そこからどこか微妙に外れてもいる。モード時代のコルトレーンとも共演しているとはいえ、彼ほどはそのスタイルを迷いなく突き進む気にもなれず、むしろ同時代のオーネット・コールマン的な「外れた」方向に向かう資質を先天的に持っていたように思われる。かと言って結局彼がフリー・ジャズの彼岸へと渡ってしまうことはついぞなかった。かくして、ハードバップでもフリーでもモードでもない、これらとみなどこかで袖を振り合いながらも結局はどれとも馴染まない、何とも収めるべき引き出しの見つからぬドルフィの音楽が存在することと相成った。一応、彼個人の演奏を越えてコンボ全体で見ると、スタイルはまあハード・バップと言えるかもしれないが、そこにドルフィの演奏が入ると、何か自らのそのスタイルを内側から破壊してゆくかのような違和感、居心地の悪さがあたりに波及する。「アンサンブルが合っていない」というのとも違うのだが、何か、乗せられながらも少しずつずれた方向に導かれてゆくような妙な感覚というか。この感覚あるが故に、ドルフィの音楽は常に、美しい予定調和に陥ることなく、危うい均衡と緊張感を失うことがない。要するに、音楽の中に常に批評性が存在するということで、ウマいヘタの次元を越え、これあるが故にこれからもドルフィと一生付き合い続けることだけは間違いない。

今月の2本
(1)北の橋(1981フランス、ジャック・リヴェット監督)
リヴェットは役者が演じることのドキュメンタリー性を丸ごと映画で生け捕ろうとするが、その目的を実現するための有効な方法が、役者に「演技する人物を演じさせること」なのだった。人も言うようにリヴェットは映画に演劇のモチーフを持ち込むことが非常に多いが、その一番重要な理由は間違いなくこれであろう。「演技する人物」を演じている時、役者のやっていることは「演技」なのだろうか、「地」なのだろうか?これは非常にひねりの効いた、かつ秀逸な仕掛けだ。もろに「演劇」でなくとも、この仕掛けは応用されて例えば日本でリヴェットがようやく認知されるきっかけになったかの『美しき諍い女』では、エマニュエル・ベアールの「画家のモデル」という役がそれを実現していた。映画の中で、さんざんアクロバットのようなきついポーズを取らされ続けるモデル・ベアールの身体のきつさは、そのまま現実のベアールの身体のきつさとぴったり重なってしまい、その結果ベアールという女優のドキュメンタリー的真実がフィルムの表面に露呈された。さて、リヴェットは70年代から80年代にかけて遊戯的というか寓話的というか、ま、そういった一連の作品を作ったが、70年代フランス映画の最高傑作と呼びたい『セリーヌとジュリーは舟でゆく』は『不思議の国のアリス』を、そしてこの『北の橋』は『ドン・キホーテ』を下敷きにしている。『北の橋』は僕の知る限りで最もメチャクチャなリヴェット映画だが、ここでの演劇性は、「ドン・キホーテになったつもりの」パスカル・オジエが体現している。パリの街を双六の盤に見立て、たまたま拾った謎めいた地図によってオジエたちは冒険を続けてゆくが、終始全く排除された室内シーン、パリ中心部でのバイクの回転運動(ここでのピアソラの音楽の使用は凄い!)から始まって、移動範囲は次第にパリの外輪へ向けて広がってゆく。要するにこれは、終始外へ外へと向かう回転運動の力学の働いた、遠心力の支配する映画なのだ。そして、この映画はいろんな点でぶっ飛んでるが、何が凄いといって、オジエの空想と現実との間に演出上何の区別もつけられていない、ということ、これがこの映画を途方もないものにしてしまっている。最後に現れる「ドラゴン」のばかばかしさはどうだろう。立ち向かいポーズを取るオジエは、フィルムを見つめる観客を意識した潜在的な「役者」なのだ。12/12〜12/15、キネカ大森にて。日本最終上映だそう。
(2)侠女 上集/下集(1970、71台湾、キン・フー監督)
今でこそ台湾映画は世界的に注目を集めているが、何もホウ・シャオシェンやエドワード・ヤンが出てくる前の台湾映画に何も見るべきものがなかったかというと、そんなことはない、という強い反証がこのキン・フーの映画なのであった。そう多くを観ているわけではないが、キン・フーの映画を躍動させる技の冴えは、まるで彼の映画の中で繰り広げられる武術の限りを尽くした技の応酬そのままに人を圧倒する。今の台湾映画を代表する先の二人の映画はどちらかといえば緩やかな時間の流れを持っているが、前の世代であるキン・フーの映画は、要所要所で全く正反対に観る者に予測の余裕を与えないスピードで進行する。キン・フーがいたからアジアで一大武侠映画旋風が巻き起こったというのが定説であるらしい。ブルース・リーもジャッキー・チェンもみな、キン・フーの子供たちなのだ。実際、僕の観た限りでも若き日のサモ・ハン・キンポーがしょっちゅう出演していたし。この『侠女』の中での竹林での闘いのシーンは語り草になっているが、カメラ・ワークといい、カッティングといい、映画の身体感覚に揺さぶりをかけ、観る者を躍動感の大波で有無を言わせずさらってゆくゆく技量は、まさに活劇精神の純粋な体現であるだろう。そしていつも唖然とさせられる映画の唐突な終わり方。『侠女』では、太陽を背に臥し片手を宙に掲げるポーズのシルエットで「哲学的?」にまとめられてしまうのだが、何で最後にああなったのか、どうも思い出せない。『天下第一』では、王位の争いのはてに銅鐸を頭にゴ〜ンと投げつけられてあえなくノックダウンした人物のショットにいきなり取ってつけたように字幕が入り、「こうして宋の時代が始まった」と一方的に断言されて終わる。ほんとか?オイ!『忠烈図』でも、全員が入り乱れての闘いの末に、細かい切り返しで全員の同時相打ちが示され、そして最後は全員の並んだ墓のフルショットで終わるという、いやはや全く人を喰ったラストはキン・フーのスケールの大きさを感じさせてくれて非常によろしいのではないでしょうか。




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