1999 10

今月の1曲
ディーター・メック/室内音楽第1番(1988)
メックは1954年生まれのドイツの作曲家だが、これ1曲しか知らないので作曲家としての全体像についてはわからない。この曲を聴く限りでは、部分的にヴァレーズを連想させたりもする、今のドイツの作曲家としてはちょっと珍しいタイプかもしれない。細かいデータもないし、楽器編成もはっきりとはわからないが、室内音楽とは言っても割と大きめの、1管編成くらいはありそうな響きの曲。テクスチュアはそんなに複雑でもなくて、一番多い時でも大体3つの層の重なりくらいか。時間を大きくぶつ切りにしていってそれぞれの中では特徴的な響きが支配的になり、それにおそらくアジア系の打楽器が絡んでくる。打楽器協奏曲というほど打楽器が中心になっているわけではないが、音色と、他の楽器群との扱いの違いによって他の楽器とは一線を画している。他の楽器群が割と数えられない不規則なリズムを基準にしている時でも、打楽器だけは割とシンプルに拍の明瞭なパターンを奏してたりしていて、一歩間違えば間の抜けた音楽になるだろう。いや、実はもうなっているのかもしれない。とはいえ、エスノ趣味をウリにしているわけでもないのはいいところ。これは、彼がドイツ人だという自制心が働いているのだろうか。もしこれが、西洋音楽を学んだアジア人だったりしたら、エスニックなものを自分の音楽に取り込む言い訳が立ってしまい、PC(political correctness)の強みで周囲もそれをつい認めてしまいがちな今の世界的な風潮は、こと音楽だけのものではないのは周知の通り。しかし、例えば執拗に管の弱奏が続いたりするぶつ切りの一つ一つは、半端に打楽器にチャカポコ入られてしまうと折角のその分断した時間の塗り分けの鮮明さを曇らせるだけの結果になり、マイナスなのではないか。その意味では、フェルドマンやシェルシくらいの確信犯にまではまだまだなり切れてはいないのだなあ。

今月の展覧会
高柳恵里(〜11月1日、早稲田・ギャラリーNWハウス)
今年の初めに木場でやっていた展覧会のタイトル「ひそやかなラディカリズム」とは、まさに高柳恵里のためにあるような言葉だと思った。以前にはもっと大きな作品も目にしていたが、最近見るのはどれもみな物理的にも小さくなっているような気がしていたものの、考えてみればVOCA展の時の平面作品はそんなに小さくもなかったことを思い出し、やはりこれは物理的な大きさの問題ではないことに思い当たった。要するに、彼女の作品は重量感を見る者に与えない。ここで言う重量感とは、あるいは「非日常性」という言葉ともリンクしていて、篭とか雑巾とかどこにでもある珍しくも何ともない素材が一見ほとんどそのままにただ置かれているようでいて、よく見ると実は....というのが彼女の「ひそやかな」戦略なのだろう。日常の物品をただ置いているだけだとデュシャンのレディメイドになってしまうが、彼女の見ているところはそれとは全く異なっている。昔見た篭の作品は、ただの篭にしか見えないのだがどこから見ても物を入れるところがなかった。また、何だったか忘れたが誰の家にでもあるような日用品が電気仕掛けでクルクル回っているのも目撃したことがある。物を入れられない篭は一体何のために存在しているのか?この日用品はなぜクルクル回転しているのだろう?などと悩み始めても答えはなく、一瞬間をおいて、そうだ、これはアートだ、アートなのだ!と俄然として思い至る。
と言うとまたデュシャンになってしまうので、言い方を変えると、ありふれた物の中にひそやかに「異化」を仕掛けておいて、それに気づいた瞬間に日常品がアートに一変する、という、そこの微妙な境目を突こう、ということかな。実はこの路線は最近見かける機会が何となく増えてて、だからこそ「ひそやかなラディカリズム」などというタイトルの展覧会も編まれたのだろうが、一応今後の動向を見守ろう。最後に、彼女はコンセプトだけで勝負しているわけではないということは強調しておきたい。さっきの回る日用品は、その回転速度の間の抜けたのろさが絶妙だったし、VOCA展に出した『ラプンツェル』は、糸のもつれ具合や全体の構成が審美的にも完璧であった(余談だがこの時のVOCA展で、高柳以外にもやなぎみわや石川順恵が受賞していたのは全く妥当な判定である)。

今月の1本
バルタザールどこへ行く(1966フランス、ロベール・ブレッソン監督)
ある映画祭にたとえ1本ブレッソン作品が入っているだけでももうそこでの真打ちは自動的に決定だというのに、このたび、東京国際映画祭においてブレッソンの全作品が上映されるという事態になってしまった。ブレッソンは怖くてまだ取り上げたくなかったのに、こうなってしまっては是非もない。それにしても、ストローブ=ユイレもそうだけど、こういう映画作家が大入りで売り切れになるなどということは、一体どうして起こるのだろうか。嬉しいような迷惑なような、何かが間違っているような。音楽でブレッソンに相当する存在はと言えば、それはJ.S.バッハ以外にはあり得ない。このたとえが何を意味するかは、わかりますね?最初期から今のところの最新作(と言っても1983年)『ラルジャン』に到るまで、ブレッソンの映画がその鋼鉄の精神の強靭さを失ったことはない。しかし1901年生まれのブレッソンも今や98歳、もう歩けない状態という噂だし、もはや新作はこの世に生み落とされないのかと思うとただ悲しい。
さて、人間の内面などというものにはなから興味がないブレッソンは、世の中の運行を機械的な運動性に還元する。『抵抗』での、周期的に巡ってくる見回り自転車のキーキーいう軋み音は、割り込む余地のない機械の運動性に結びつき、『ラルジャン』では金が生き物のように自律的に人間の間を「運動」していってついに悲劇にまで到る。『スリ』を挙げるまでもなく、よく言われるブレッソンにおける手のショットの多用は、このブレッソンのスタイルを典型的に示している。手は考えない、手はただ運動するだけだ。それは黙々と働き続ける労働者のイメージとも重なってくる。この『バルタザールどこへ行く』ではロバが主人公だが、このロバ(=バルタザール)は何も言わずただただ人間から人間へと受け渡され、重い荷を背負い歩き続ける。彼に「内面」は存在しない。いわば、この映画は手塚治虫の動物マンガの対極に位置しているのだ。手塚の動物マンガでは、動物たちは例外なく言葉を操り、人間のように行動する。彼らが人間でなく動物であるのは、たまたまに過ぎない。手塚治虫のマンガ世界では、人類にとって他者は存在しない。動物も宇宙人も、分かり合えるはずの「予定された共同体」に属する存在なのだ。しかし、ブレッソンのこの映画ではロバは全く擬人化されず、内面もないので初めから人間と分かり合うも何もない。これは、いわば意志のない純粋な運動機械を渦の中心として、その周りに人間たちが現れては消えてゆく映画なのである。そして最後、さんざん酷使に耐えて働き続けた機械の運動は、人間に誤って撃たれることによってやっと停止する。永遠に。カウベルの音が恩寵のように鳴り響き、山の斜面で静かに「停止」してゆくバルタザールの周りを羊の群が取り囲む。バルタザールとは、聖書に伝えられる聖者の名前である。10月31日、渋谷・シアターコクーンにて上映(11月20日、日仏学院も有り)。




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