2000 5月
今月の展覧会
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1998
1999
2000
西山美なコ(〜6月10日、表参道・ギャラリー・シマダ)
たしかに西山美なコはポップ・アートの血を引く作家ではあるだろうが、そこにジェンダーの問題が絡まってくることで、一筋縄では行かないいくらか独自のスタンスを獲得した。かつてはポップ化した日本の少女趣味(例えばリカちゃんハウスなど)をあからさまに題材にした作品を作っていたものだが、これは女性が見るのと男性が見るのとでは自分の子供時代に照らして印象はかなり違うものなのだろうか。彼女に対してもし日本の少年趣味をネタにした作家を対比させるとしたら、それはヤノベケンジなのかもしれないが、ジェンダーにこだわらない多くのポップ作家を思うにつけ、西山美なコのポップ素材の特異性が気になってくる。人それぞれではあるだろうけれど、自分の幼年時代を振り返ってみると女の子向けのおもちゃ類とか少女雑誌の類にはそんなに惹かれはしなかったものの(少女マンガに目覚めたのはもっと後年)、そこには何か見えない線の引かれた侵犯しがたい「向こう側」の世界が広がっているのは感じていた。いま西山美なコの作品を前にすると、あの「見えない線」の感覚とは一体何だったのか、ということに思いを馳せたくなる。しかし近年、彼女の作品は更に新たな展開を見せる。去年だったかの、同じ画廊での個展では白い冠などの装飾的な小品が出されていたが、その装飾の模様がアール・ヌーヴォー的というか、唐草模様の要するに昔の少女趣味の家や服の作品からそれらを少女的たらしめていた装飾のエッセンスだけを取り出して見せたものだったのだ(少女マンガとアール・ヌーヴォーの親近性は明らか)。しかも、それらの作品はすべて砂糖と卵で作られていて、「女の子の好きな」お菓子につながるラインもきっちり引かれている。その材質からして当然壊れやすいわけで、今回の展示では壊れて断片化した「装飾の破片」ないしは前回展示した装飾品の部分写真などが見せられる。一点、数年前に作った砂糖と卵による装飾作品が崩れ、変色した残骸も展示されていて、ここに至って、彼女がただの楽天的な少女趣味の作家などではなく、時間性、あるいは事物の有限性を相手にしたしたたかな作家なのだということが明らかになる。こうしてどんどん断片化してきて、さて次がどうなるか楽しみ。
ルートヴィヒII世のためのレクイエム(1972ドイツ、ハンス・ユルゲン・ジーバーベルク監督)
現代ドイツ映画の最も重要な作家の一人でありながらいまだに日本では見れる機会が皆無に等しいジーバーベルクだが、かといって本国ドイツでは高い人気を得ているのかといえばそういうわけもないらしい。何しろ作る映画はやたら長いし、後で述べるようにその作風は全く大衆的ではなく通常の作りを大きく逸脱しているし、当然全然儲からないので次第に経済的に追いつめられ、近頃はヴィデオに活路を見出しているという話。彼の作品歴の中でも一番物議を醸したのは7時間にも及ぶ大作『ヒトラー』で、ドイツでこういう題材で映画を撮ることがいかに危険な試みであるかはいうまでもなく、そういえばキーファーが初期に路上でナチ式の敬礼をするパフォーマンスをやっていたという話を思うにつけ、よくキーファーは無事で来れたなと感じ入るのだが(ドイツではこれをやると犯罪になると聞いたが‥‥)、まあキーファーは措いといて、そんなジーバーベルクが拠って立つ国内でのポジションが不安定なものであるのは容易に想像がつこうというものだ。ところで僕もいまだにこの『ヒトラー』を見れないでいるわけだが、この映画が『ルートヴィヒII世のためのレクイエム』とともに「ドイツ三部作」のうちの2本をなすことや、その他の若干の情報によって『ヒトラー』が大体どういう映画であるかは見当がついているつもりだ。『ルートヴィヒII世のためのレクイエム』の方は、ヴィスコンティの『ルートヴィヒ』とほぼ前後して撮られたとはいえ、当然のようにその方向はまるで異なっていて(ヴィスコンティの方はあまり感心しない)、マニエリスティックな作りに徹している。ズームもパンもない動かぬカメラ、アクションの排除、場面はただカットによって切り替わる。人物の会話は常に相手不在のモノローグで、というとまた随分禁欲的なフィルムだと思われそうだが、その一方で場面場面を統べる強い色彩、ワーグナーを中心として絶えず氾濫する音楽、あからさまなまでのチープなカキワリの使用、などがリアルではないもう一つの仮想現実へと人を導く。フィルム内フィルムでは映画の時代を無視して現代ドイツの雑踏の風景が流れたり。要するに、ドイツ神話、ワーグナー、ナチス、現代ドイツなどをルートヴィヒII世をとりあえずの蝶番にして縦横に混交させてドイツの歴史の総体を浮き彫りにする、という壮大な試み。それも、己が映画であるという現実からあえて目をそらし、絶えず演劇に嫉妬し続けながら画面が組織されてゆくという屈折した存在の様態。
1996
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