2000 3月
今月の展覧会
今月の2本
1997
1998
1999
シュポール/シュルファスの時代(〜3月30日、東京都現代美術館)
「今月の」と銘打ちながらも、実はもう終わってるんですけど。そこで、この文章は展覧会の紹介でもレビューでもなく、時空を越えた「シュポール/シュルファス」を巡る雑多な思いつき、というようなものになるわけですね。パリとニースを拠点に集まったフランスの作家たちの60年代後半から始まったある種の美術運動を指すこの名称「支持体/表面」は、一旦余計な飾りを剥ぎ取って、美術を成立せしめている暗黙の前提そのものを作品の基底に据えてみよう、というような運動だったわけだが、それはよく言われるように「もの派」(日本)、「アルテ・ポーヴェラ」(イタリア)、「ミニマル・アート」(アメリカ)などの同時代の他国の運動ともある共通した部分を持ちつつも、しかしそれぞれ明確にお国柄が出ているのは面白い。いくら素材そのものに立ち返ると言っても、シュポール/シュルファスは結局は「木枠」、「布」で、つまり既にして人の手が入って美術制作一歩手前の段階の「素材」どまりなのだが、これが更にただ切り出してきただけの「木材」とか「石くれ」とかになると、もの派に一歩近づくことになる。これは、河原で拾ってきた石そのままでもう鑑賞の対象になってしまうというような日本的な自然の愛で方に関係があるだろう。もちろんこの比較は、より自然状態に近いからエライ、とかそういう問題ではないのは言うまでもないが。そして一方、アメリカ的なぶっきらぼうさというか、手の技を惜しげもなく捨てて平気、という気質はそのままミニマル・アートにも反映されていたわけだ。フランス人にはこういう大雑把さは耐え難いものに違いない。そして、どんなに「素材そのもの」を強調したと言っても、どっかでどうしても「美しく」造形してしまうのは、もう彼らの性としか言いようがない。しかし、ニューヨークでさんざんアメリカ美術漬けになって帰って直後にこういうものを見ると、もうこの「美」へのこだわりがいちいちうざったい、というのが正直あって、おまえらえー加減にせい!と言ってやりたくもなる。「美」などというものは芸術にとって必要不可欠最重要なものではないのだ。もう一つ、シモン・アンタイから受け継いでいるからかどうか、布や紐を織ったり編んだり、というような手作業が彼らの表現を工芸的なものへと近づける。工芸こそは「手の技」そのものが命なのだから、「手の技」にこだわるのならこの方向にゆくのも当然だろう。
(1)瀬戸はよいとこ・花嫁観光船(1976松竹・瀬川昌治監督)
東映や松竹を中心に喜劇映画を撮り続けてきた瀬川昌治の映画は、しょっちゅう浅草界隈やテレビで掛かっている割には、瀬川自身が作家として話題になることがあまりにも少ないのはなぜだろう。今もって作家主義を不問の前提として振りかざして疑わないオタク雑誌は問題ありだが、こういう瀬川のようなケースに対しては今でも作家主義は有効であるはずだ。『喜劇・列車』シリーズや『喜劇・旅行』シリーズが、あれだけ数あって、しかも波があるとはいえ、どれも見て損はないくらいには面白い(ときどきこの『花嫁観光船』や『喜劇・女の泣きどころ』のような傑作もある)というのに、この無視のされ方は不当である。彼に比べれば、もう一人の喜劇の天才・森崎東の方がまだ作家として遇されていると思う。山田洋次がなぜ大家になってしまったのか、その辺のいきさつがよくわからないのだが、ドタバタナンセンスの極みで日常と非日常が突如反転するような体験は、あくまで常識的な安全圏内に留まる山田映画ではありえない。ともかく、シリーズとして量産してゆく中で、そのギャグがいささかパターン化している、というのはあるとはいえ、瀬川昌治を支持しよう。後年はすっかり喜劇作家のラベルが貼られてしまったが、初期のシリアスものの知られざる傑作『山麓』などを見ると、瀬川の才能が喜劇に留まらないことがわかる。むしろ方向が限定されてしまったのは残念だった。さて、この『花嫁観光船』のすばらしさは、何といっても一切セリフなしの、阿波踊りの長いシーンに尽きる。ごった返す群衆と踊る人々、夜空の花火の炸裂する中で、仲違いしていた男女ペア3組が偶然出くわし、次第に接近して関係性を回復してゆくまでを、純粋にカメラワークと音の饗宴、編集だけで描き切ってしまった。個人的には、このシーンを観ると、なぜかフラーの『クリムゾン・キモノ』の最後のリトル・トーキョーでの踊りの行列シーンを思い出してしまうのだが。4/4まで浅草新劇場にて上映。
(2)りんご(1998イラン、サミラ・マフマルバフ監督)
イラン映画といえば「子供で押せ!」というのが標語になってるような状況があって、それは現実にイランで作られる映画の多くがそういうもので占められているのか、それともキアロスタミの国際的成功で業者が2匹目、3匹目のドジョウを狙ってそういうものばかり輸入しているせいなのか、一体どっちなのかという疑問があるのだが、数年前のユーロスペースでのイラン映画祭の時はそんなに子供映画のオン・パレードではなかったような記憶もあり、やはりこれは業者の偏向のせいなのかもしれない。子供で押そうが押すまいがいいものはよくてダメなものはダメなのはいうまでもないが、さすがにこちらとしてもイランの子供映画の連続射撃には、それがいくらそこそこ悪くはない映画だとしてもいい加減疲れてきた、というのが正直なところだった。そういう状況の中にサミラ・マフマルバフが出現する。これは確かに事件だったといってよい。生まれてから12年もの間外に出してもらえなかった双子の姉妹の物語、ということでこれもまた子供映画ではあるし、今振り返ると題材がどうも現在の日本では妙にリアルすぎる気もするのだが、とにかくこれはこれまでのイランの子供映画とは全く一線を画して扱わねばならない作品だ。父親のモフセン・マフマルバフもすばらしい映画作家で、多分年内にまたここで取り上げることになりそうだが、彼の娘のサミラが18歳にしてこんな映画を撮ってしまったというのは、たとえキアロスタミがこのまま落ちていったとしてもこれでイラン映画の将来はもう大丈夫。キアロスタミ以後ロッセリーニ的なドキュメンタリー・タッチの子供イラン映画が次々に放たれたが、この『りんご』はその路線とは全く異なった地点で演出されている。そこに、あくまでも「安全に当たる」そういった「主流」路線にだけは与するまいという若きサミラの気概を感じる。随所に出てくる素材としてのりんごの扱い方はある意味作為的にも見えるが、作為的に見えることを恐れず、あえて実験的な構図や語り口を大胆に、シャープに出し切る行き方は、今の時点では全然構わないし、もっとやればいいと思う。次回作に乞うご期待。
1996
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