2000 1月
今月の展覧会
今月の2本
今月のマンガ
1997
1998
1999
ジョゼフ・コスース(〜2月6日、千葉市美術館)
去年のジャッド展に続いて重要な展覧会が今千葉で行われている。コスースはコンセプチュアル・アートの代表的な作家だが、これまでは忘れた頃にこちらの画廊で一つ、あちらの画廊でまた一つ、という見方しかできなかっただけに、やっとこうしてまとめて観れる機会が訪れたのは嬉しい。ジャッドともども遅すぎた、という観は否めないが。近年は公共空間の仕事にも関心を示すコスースだが、今回は美術館という従来の制度的な場所向きの作品に搾られた。僕はまだ見てないのだが、数年前に立川にコスースの公共空間向けの作品が設置されたはずなので、興味のある方はそちらもどうぞ。さて、去年のジャッドについて書いた文章を受けた形になるが、モダニズム理論に沿って絵画も彫刻も「純化」されて余計なものを削ぎ落としていった結果、実在する「物」はついに消滅してしまい、あとには「関係」だけが残った。「関係」を見せるのに最もふさわしい道具は言語であるだろう、なぜならば言語こそは「関係」の体系そのものなのだから。こうして、ジャッドがまだしも立方体やフレームという「物」に留まり続けたのに対して、コスースは言語を中心に据えた表現へと一歩踏み越えていった。「自分の作品は諸関係の関係である」(コスース)。一番有名なコスースの作品はおそらく『3つの椅子』だが、この作品を例に取ると、何の変哲もないただの椅子が一つ置かれていて、その脇には同じ椅子の写真が壁に貼られている。更に「椅子」についての辞書の定義の拡大コピーが壁に。つまり我々は同じ「椅子」という物の存在を巡ってそれを実物、写真、定義(意味)の3つの方向から見せられるわけだが、この3つがどうして同じものだと言えるのか、その関係性は実は習慣から来る全く恣意的なものに過ぎないのではないのか、という事実に気づかされる。題材が「椅子」ではなく「写真」になると、写真の「実物」の脇に写真の「写真」が並べられていて、更に関係性は錯綜してくる。近年は、言語という基本素材は保ちながらも、初期コスースに特徴的だった「同語反復」というアプローチはなりをひそめ、言語の乗っている媒体自体の「もの性」が「言語」自体との間に作る関係性をどうするか、という点に関心は移行しているようだ。
(1)モンキー・ビジネス(1952アメリカ、ハワード・ホークス監督)
これまでなかなか全貌が見えてこなかったホークスだが、現在京橋フィルムセンターにて進行中のハワード・ホークス映画祭によってようやくその多様性を一望の下に収めることが可能になりつつあるのは単純に喜ばしい事態だ。まとめて観て初めて見えてくるのは、どんなジャンルでも難なくこなしかつ最大の成果を上げてしまうという徹底した職人性だろうか。『リオ・ブラボー』が彼の代表作だと思っていた人にとっては、ハワード・ホークスとは西部劇の監督なのだろうし、『暗黒街の顔役』が代表作だと思うと「犯罪映画の巨匠」で、『遊星よりの物体x』だとSF、『赤ちゃん教育』だとドタバタ喜劇ということ、しかもどれを観てもあまりにこなれているので、次第にすべてが代表作のような気がしてきて、かえって今やホークスとは何者なのかがわからなくなってきつつあるのであった。一本観る度に巨大な象の体の一部を撫でているかのような。こういった明晰な細部と曖昧(多様)な全体のブレンドは、リヴェットも言うように彼の一つの作品の中においても見られる。どんなにシリアスな映画であってもその中に喜劇的要素が混入していたりすると、人は彼がやろうとしているのがシリアスなのかコメディなのかわからなくなるのだが、一瞬の後、それが限りなく「人生」に似ていることに気がつくのである。かつては本国でもただの器用な職人監督と蔑まれていた時代があったが、それに猛然と異を唱え、彼に「作家」としての高い称号を与えたのが、ヌーヴェルヴァーグの作家主義(ヒッチコック-ホークス主義)だった。この『モンキー・ビジネス』も、昔初めて観た時その迷いなきスラプスティックな姿勢の徹底と純度、完璧さにノックアウトされた。ホークスの喜劇は、どれを観てもハンパじゃなくナンセンスだが、その度にここまでぶっとんで「くだらない」映画が世にあるだろうか、と自らに問いかける。『モンキー・ビジネス』はあと2/3、2/8に上映、ホークス映画祭自体は3/2まで。
(2)UFO少年アブドラジャン(1992ウズベキスタン、ズリフィカール・ムサコフ監督)
これはもう、愛すべきローテクSF映画の筆頭に挙げたい作品。明らかに合成見え見えの巨大キュウリや巨大トウモロコシ、鍬にまたがって空を飛ぶ人々、UFO少年の前に供された食事はポン!とカットで消え失せ、それでもう食べ終えたことになってたり。鍬にまたがって宙に浮いてゆく少年はフルでは映されず、ただ上半身がおもむろに高く上がってゆくだけ。おい、それは単にクレーンに少年を乗せて、上がってく彼の上半身を撮ってるだけだろ!しかし、この監督が現代のSF映画を知らずに技術的無知でこう撮っている、というわけではないことは、冒頭に「偉大なるスピルバーグ様〜」で始まる茶目っ気のある献辞がナレーションで語られることからもわかる(最後は「いかがでしたか、スティーヴンさん?〜」でシメられる)。深読みすれば、もしかしてコンピューター駆使の現代のハリウッドを中心とするSF映画に対して、ローテクでもここまでやれるんだ、見ろ!とあおっているのだろうか。でも実際、多額の費用と最新CG技術を掛けたハイテク映画のどれよりも面白いのは確かなのだが…。ま、現実は単に予算がなかっただけのことなのだろうが。この映画そのものは、全然挑戦的でもなんでもなく、地球に不時着したUFO少年と、彼をわが子のように思うようになった夫婦との心の交流物語で、最後、当局に狙われるようになった少年を、妻は隠してあったUFOのリモコンを返して宇宙へと帰してやるのであった。この映画って、やっぱり『E.T.』を意識してると思うんだけど?
えの素(1997〜、榎本俊二)
吉田戦車ブームをきっかけに世に出た不条理ギャグ・マンガ家は数あれど、次第にワン・パターンに陥り失速してゆく作家が多い中で、逆に近年になるにつれてますますレベルアップしてゆく希有の存在、それが榎本俊二であり、今や疾走する彼の速度に並ぶ者はない。絵柄自体は本来そう個性的ではないのだが、その妙に通俗的なタッチのマイナス面を、逆に記号化に徹することで乗り越えたのだと言える。ナンセンスな発想それ自体も余人の追従を許さないが、個々の発想が自由連想のように次から次へと受け渡され、マシンガンのように矢継ぎ早に繰り出されてゆくそのスピード感は近年ますます増しつつあるようだ。だが、と言って単にスピード感一本やりなのではなく、流れが停滞するかのような無気力な時間の唐突な挿入による脱臼、などを総合しての時間のコントロールが見事だということを強調しておかねばなるまい。本人が「自分のギャグ表現力に自信が持てるきっかけになった」と語る『反逆ののろし』を読むと、彼が日本マンガ界きってのフォーマリストであることがよくわかる。『反逆ののろし』はマンガ・フォーマリズムの純粋実験だが、これだけなら表現としては振り幅の狭いもので終わっていたであろうところを、この作品を通過することでそれ以後の、フォーマリズムをも取り込んだ榎本俊二の90年代の豊饒な成果がもたらされた。榎本俊二がマンガを、記号による時間のコントロールだと思っているのだとすれば、僕自身の立場からするならその認識には全面的に賛成。
1996
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