2001 9月
今月の展覧会
今月の1本
1997
1998
1999
2000
(1)ジョージ・シーガル(〜10月21日、渋谷・ザ・ミュージアム)
シーガルの作品は、よく知られているように、現実の人間の身体に石膏を含ませた布を張りつけて取った型が素材になっており、つまりいわゆる人間をモデルにした彫刻の類とは全く異なった方法で作られているのだが、この方法で興味深いのは、立体作品でありながら、あたかも写真を前にする時のように「これはかつて存在した」という感覚に捕らわれてしまうということだ。通常は絵画であれ彫刻であれ、どんなにリアルに作られていようともそれは手技による100%創造の産物であるということが前提となっているが、シーガルはこの方法によってまるで写真のように立体を作る道を発見した。いわば、極めてローテクな作法による一種の「立体写真」の先駆というか。バルトだったら彼の作品をどう評したか聞いてみたかった。シーガルは自分の作品のそんな特徴をよく理解していて、例えば人体の型(の一部)に椅子とかバスの手すりとかいった現実の物体(の一部)をくっつけた形で仕上げたりもする。この彼の作法で得た素材に後で人工的な着色を施そうとも、人工的に何かのオブジェを付加しようとも、素材が「かつて存在したもの」からできているという感覚は失われることはない。現実のオブジェが身体の型に付加されることで、それは街中の一人物のある一瞬を捉えたかのような、一種のスナップショットのようなものになる。もちろん、モデルから型を取った時にその場所でオブジェと一緒に型を取ったわけもなく、スタジオでポーズをとらせて取った型に事後的に物体をくっつけているにすぎないのだが、こうして演出された架空のスナップショットは、石膏を顔に乗せられたために目を閉じた状態で出来上がったモデルの顔の死者のような静謐さと相俟って、永遠に静止した時間感覚を湛えている、つまりそれは写真的だということだ。一見何でもないようなシーガルの作品が意外なところでコンセプチュアルであることに気づいてみるのもまたよきかな。
(2)村上隆(〜11月4日、東京都現代美術館)
一足先に終了した奈良美智展と村上隆展は、たまたま、かどうかは知らないが同時期に開催されたこともあって何かとメディアでも並べられて取り上げられていたように思う。共通点はいわゆる現代美術のイメージに反して具象的であること、ポップであること、「かわいい」要素もあることで、これで大きく一つに括られることとなった。もう少し前に終わった森村泰昌の場合にはこのうち3番目の要素がなく、従ってこの二人ほどの一般受けはしなかったのかもしれない。それにしても、狙った狙わないはともかく、奈良と村上の方向が今の日本のある何か名状しがたい空気のようなものを射抜いているのは確かである。だが、実のところそれ以外の点でのこの二人のベクトルはほとんど正反対だ。奈良の場合は、今回の展覧会でも展示されていた幼少時からのぬいぐるみや人形の膨大なコレクションを見ればわかるように(あれらを今まで捨てずにとっていたというのが凄い)、ひたすら本人が等身大的に好きなものを幾つになっても手放さないで来た結果として出てきた表現で、本人にとっての無意識の産物であると同時にそれが今の日本人の「普遍的無意識」の琴線に触れる。そこに、いやな言葉だが今はやりの「癒し」を感じるファンは多いに違いない。一方の村上の作品は、間違っても「癒し」としては機能しそうにない。彼が作り出すキャラクターはどれも極めて意識的な産物で、サブカル、おたく的なものが世界に切り込むためのツールとして持ってこられる。キノコの森のファンタジー世界には、そこに一歩足を踏み入れたら迷い込んでしまうかもしれない深遠な森の畏怖感はなく、見る者はどこまでも表層を「スーパーフラット」に滑ってゆくばかりだ。一見かわいいDOB君は、その笑顔の原型のまま次の瞬間奇形的に分裂、増殖してゆく。「かわいらしさ」に愛想を見せるのは初めの一瞬だけで、あとはむしろクリアなハード・エッジの描線で元をどこまでも変形させてゆく技巧の快楽に身を任せているかのように。その時、かわいいキャラクター・デザインに思わず心を奪われかけていた観客は、これが「アート」であったことを突如思い出す。
ヨーロッパ(1991デンマーク/ドイツ/フランス/スウェーデン、ラース・フォン・トリアー監督)
映画監督と催眠術師は同じ、と語るラース・フォン・トリアーは、まさにその映画監督の定義を証明すべく映画を撮り続けてきたのだろう。『ヨーロッパ』の冒頭、男の声が「あなたをヨーロッパへ連れてゆこう」とささやきかけ、一つ、二つ、と数え始めるあたりからして既に人は催眠術師トリアーの術中にはまってゆく。こういう催眠術的なささやきは彼の他の初期作品にもあったような気がする。また、長編第1作の『エレメント・オヴ・クライム』からして不健康に黄色っぽいくすんだような画面で全編が統べられており、この色調もまた幻想世界、それもメルヘンとしての幻想ではなくむしろ悪夢に近い世界へのいざないとして機能する。このやり方は昔キエシロフスキもよく用いていたが、トリアーの方がより徹底していた。何しろ後年の『キングダム』では、今ある第1〜4章の全部見ると約10時間もの長きにわたってそんな色調の中、テンションの高い異常な物語をこれでもかと見せられ続けるのだから、そんなトリアーはかなり偏執/変質的な作家だと言わねばなるまい。それでも彼は10時間作ってもまだ足りず、続編をこれからも更に作る意気込みだというから呆れてしまう。さて、この『ヨーロッパ』は夢魔的な感触と細心の緻密さが最も高度に結びついたという意味で彼の最高傑作であることに疑いはない。この映画の色調は不健康な黄色ではなく、白黒とカラーの極めて人工的な使い分けで、本人も言うように映像的に『狩人の夜』の影響が色濃く、その世界観はカフカである。そういえばソダーバーグの『カフカ・迷宮の悪夢』がカフカ的な迷宮感覚を全然捉え損なっていて鼻白んだのに比べると、こちらの方はカフカにもロートンにも恥じない出来だといえよう。もう一つ特筆すべきは、全編を通じてのスクリーン・プロセスの多用である。スクリーン・プロセスという極めて古典的な技法をトリアーは見事に蘇生させ、使い古されたかに見えたこの技法にもまだこんな可能性があるということを我々の前に示してみせた。例えば、ある画面の中に複数の人物がいて、その中の一番手前の人物だけを残して後景の人物たちの風景が悪夢のようにおもむろに回転してゆく時、それまで一つのものだと思って見ていた画面が、手前の人物以外はスクリーン・プロセスによる合成であったことに初めて気がつく、という具合。最後の、水底の揺れる藻の中の死体が『狩人の夜』であることもまた、改めて言うまでもあるまい。そんなトリアーも、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でマニアックな作家を返上して世界のメジャー作家へと進路を修正しつつある。それが吉と出るか凶と出るか。
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