2001 4月
今月の展覧会
今月の2本
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1999
2000
ゲルハルト・リヒター(〜5月27日、千葉・川村記念美術館)
日本で今日までまとまった紹介がされてこなかったリヒターは非常に誤解されやすい存在である。ある人はリヒターをピンボケ絵画の画家だと思っているかもしれないし、またある人は完全な抽象画の作家だと見なしているかもしれない。また、筆の技巧を排して鏡やパネルを並べる人だと思われている可能性もある。そのどれもがなるほど確かにリヒターには相違ないが、それは彼の一面に過ぎない。リヒターの作品を単発的に見ると群盲が象を撫でる状態になり、即ち作家としての全体像を誤解する羽目に陥ってしまう。なぜそうなるのかといえば、リヒターは全然異なるスタイルを並行させて作品を制作するタイプの作家だからだ。一人の作家が時代とともに作風を変化させてゆくことならよくある。しかし、一見全く無関係に見えるスタイルの作品を同時に進めてゆく作家はそうはいまい。そのリヒターの日本で初めてのまとまった規模の展覧会がようやく開かれた。このことの意義は大きいと言わねばなるまい。今回の個展の目玉は40年来の膨大な規模の連作『ATLAS』で、これを丹念に見るとリヒターの一見バラバラに見えた複数のスタイルが実は一貫したコンセプトの元から分かれ出たものであったということが理解できる。これまで抱いていた謎が明晰な光の一望の下に照らし出される。リヒターの創作にとって写真の存在は本質的に重要で、制作のどこかの過程に写真というフィルターを通すことによって、主観とも客観ともつかぬ独自の表現に至った。この『ATLAS』は、その元になった40 年間の写真約4500枚が素材になっていて、現在もまだまだ増殖中である。写真をどのように創作の過程にかませるのかにもいろんなパターンがあり、とても短いスペースでは説明できない。例えば一番わかりやすいのは、人物の写真などをもとにそれを緻密に絵に描いて、後から刷毛などでその輪郭をこすってぼかす、というもの。ここでは写真は出発点だが、いつもそうとは限らない。また別のある作品では、まず感覚的に抽象絵画を描いてからそれを一旦写真に撮り、その一部を拡大して改めてもう一度忠実になぞって引き延ばして描き直す。人間の目とは違って主観で取捨選択しない、というカメラの目の特性が、肉眼では到底ありえなかった眼差しで対象を異化しているのだ。今回唯一残念なのは、日本におけるリヒター受容の順序として、まず先にまとまった規模で『ATLAS』から作られたリヒターの諸スタイルの作品を紹介しておいて欲しかったということで、リヒターに初めて『ATLAS』から出会う人は混乱しないだろうか、という心配も抱いている。これからでもいいから、是非リヒター展第2弾としてそれをやって欲しい。ちなみに、リヒター展関連企画として、5月19日、17:45より同会場にて僕のトーク+新作初演というイヴェントもあります(後半は杉田敦氏のレクチャー)。
(1)悲愁物語(1977松竹、鈴木清順監督)
最近ちょっとした清順ブームのようになっているけれど、初めに日活時代の清順と出会うか『ツィゴイネルワイゼン』以降と出会うかによって清順映画の印象はだいぶ異なると思う。もっとも本人の中ではおそらく断絶はなくて、日活時代でも初期から何か一本抜けているような、すっ飛んだ演出は時々散見されていた。ただ、会社がそういう方向を極度に嫌うというバイアスが常にかかっていたので、本人としてもやりたいことをかなりセーブしてやってきたのだが、そのすっ飛んだ部分が年々次第に肥大してきて1968 年の解雇事件にまで至った。本人の意識では「ごく普通の大衆娯楽映画をわかりやすく撮っているにすぎない」のは、意識の中での比較の対象がその後のバイアスの外れた以降の映画だったのだと思うと納得できる。もちろん今昔の作品を見ても難解だなどとは全く思わないし、押さえるべきツボを押さえつつ明快に語り切っているだけなのだが。ところで筒井武文氏が的確に指摘しているように、後期清順は「日活以後」の『悲愁物語』からではなく、解雇の直接の発端となった日活時代最後の『殺しの烙印』(1967)から始まる。一つ前の『けんかえれじい』と比べると、「物語外」のファクターがここで飛躍的に増大していることがわかるだろう。『殺しの烙印』以降『悲愁物語』を撮るまでの強いられた空白の10年は惜しみても余りある人類の損失だが、10年ぶりの映画がこの『悲愁物語』だというのがすごすぎて、もう天然としか言いようがない。『ツィゴイネルワイゼン』以後のいわゆる「三部作」は、ともすれば超俗の「芸術映画」ぽく見られもするが、『悲愁物語』は間違ってもそうは見えるまい。そもそも清順と梶原一騎と佐野周二という出会うはずもない三人が一堂に会して何も起きないわけがないのだ。梶原一騎ができあがったこの映画を見てどう思ったのか、非常に興味がある。スポ根のゴルフものを原作として提供したはずなのに、上がってみるとスポ根どころかわけのわからん化け物のようなメチャクチャな映画になっていて、はたして彼は怒り狂ったのかどうか。今度のまたしても10年ぶりの新作『ピストルオペラ』は「三部作」の路線ではなく日活時代のアクションものにつながりそうな気配で、大いに期待。『悲愁物語』は5月12日にシネセゾン渋谷のオールナイトにて上映。シネセゾンとテアトル新宿で現在やっている清順特集も必見。
(2)カビリアの夜(1957イタリア、フェデリコ・フェリーニ監督)
フェリーニはオペラが嫌いだったという話があるが、そういえばヴィオラ奏者のバルベッティもオペラは嫌いと言っていたし、日本人だからといってみなが歌舞伎好きではないように、オペラ嫌いのイタリア人がいたって何の不思議もあるまい。言い古された話ではあるが、フェリーニにとってのインスピレーションの源はオペラよりもむしろサーカスで、最も直截的にサーカスへオマージュを捧げた『道化師』が同時にフェリーニの最も幸福な映画だったことを思い起こす(「幸福度」で言えば次が『アマルコルド』だろう)。そもそもフェリーニ映画の舞台がヴィスコンティみたいにブルジョワ階級だったことはなく、ここにもオペラ指向vsサーカス指向の相反する方向性が垣間見られる。初期のネオ・リアリズム映画から次第に離反してゆくにつれて、エピソードの羅列的な構成という特色は強まっていったが、そもそもサーカスの公演自体が出し物の羅列なわけで、本人が意識的であるかどうかはさておき彼の映画の構造にはサーカスの構造が影を落としているのは間違いない。ケージの「ミュジサーカス」のような同一空間で別々のイヴェントが同時多発的に進行するというあり方とは異なった線的なエピソードの連なり。この『カビリアの夜』はまだ全体の物語が有効に機能している時期の作品だが、それでも既にその内部はかなりエピソードの連なりになっている。要するに冒頭の、男に騙されて河に突き落とされるシーンと最後の結婚詐欺師に再び騙されるシーンが円環を示す物語としては重要で、仮にその間の諸エピソードがなくてもとりあえず物語的には成立する。ただしそれだと随分つまんなくなるだろうが。次の『甘い生活』では大きな物語はかなり希薄化して「羅列感」が強まり、『8 1/2』あたりからは更に題材はリアルに背を向けて幻想の全面展開へと向かった。ところで話を『カビリアの夜』に戻すが、最後の、ジュリエッタ・マシーナがフランソワ・ペリエと結婚して崖のレストランに来るあたりからの何やらただならぬ空気感の変化にはおののかずにいられない。見降ろす、という初めて現れる縦の視点に加えてのもの哀しいギターが何物かを予感させる。この後の展開に見られるペリエの存在が示しているものは、「悪」ではなく人間の原罪としての「弱さ」であり、再びカビリアの表情に笑顔が戻るのは彼女の「愚かさ」の表現ではなく神の「恩寵」の顕現である。
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