2000 11

このところずっと修羅場による「仙人状態」が続いていて、世の中で何が起きているのか皆目分からない。ごくたまに、どうしても逃せないものだけ良心の呵責に苛まれながらピンポイントで見に出かける。マヤ・デレン、ベニンクはなんとか行ったけどレアンドル、ダムタイプは無理かもしれない。

今月の1曲
アリソン・キャメロン/Raw Sangudo(1986)
キャメロンは現在30代のカナダの作曲家だが、節操のなくなったフェルドマン、とでも言いたい独特なスタイルを持っている。例えば『Weisure 2』では低カロリーに淡々と音を空間に置いていったその果てに、後半、次第に3度のハモリで「稚拙」なハーモニカのレシタティーヴォが高まってきて、それまでの、薄い音の層でとれていた調和が崩される。『Runa』も基本スタイルは空間に淡々と置かれてゆく単音と持続音だが、エレキ・ヴァイオリンやエレピや妙にポップな響きのグロッケンらが織りなす響きの全体は絶対にフェルドマンからは出てこないものだ。基本的にポップなサウンドでは全くないのに、シリアスな中に場違い的にポップな要素が混ざり込んでいるとその作品全体のアトモスフィアが乱されて居心地が悪い。シリアスとポップのカット&ペイストにしてしまうのなら話は早いし簡単だが、全くそうなっていないのはさすが。90年代後半の曲は僕が聴けた中にはないようだし、年代がわからないのも何曲かあったというわけで、今の時点では彼女の作風の変遷をクロノロジカルに追うことはできず、現在のスタイルもわからない。ところでこの『Raw Sangudo』はアルト・サックスとトランペットとチューバのためのトリオだが、あまりフェルドマン的ではないその訳は、音楽のアーティキュレーションがむしろヨーロッパ的であることがまず一つ。そして、アンサンブルになる部分は大抵ユニゾン(またはリズムのユニゾン)で、チューバはいつも最低音域でしか現れない、反復音型が多い、などといった「限定」によって、各部分ごとに明確にキャラクターの異なった部分が切り替わって現れるからだろう。「限定」といっても、色分けの明確さが淡々とした印象を払拭してしまっているのだ。その色分けのコントロールは的確で、常に予定調和になる寸前で聞き手の一歩先をゆく。これはかなりの才能だと言っていい。

今月の展覧会
伊藤義彦(〜12月16日、田町・フォト・ギャラリー・インターナショナル)
本来、写真というものは1枚という単位が全世界で、たとえ連作といっても1枚1枚の自立性が前提された上での連作であったはずだろう。今の荒木経惟の展示のスタイルなんかだと、その「1枚」という単位をはみ出し、投げ出されるイメージの洪水の全体をインスタレーションとして提示しているわけだが。さて、伊藤義彦はアラーキーとは全く異なるやり方で写真の持つ「1枚性」を逸脱した仕事を続けてきた。彼の場合は、フィルム1本分をまるごと焼いて1枚の印画紙の上に定着させる。当然、それは誰もが見覚えのある、上下をフィルムのパーフォレーションで遮られた、何段も整然と並んだミニ写真の連なりとなる。その印画紙全体を眺めた時に立ち現れる形象が彼の目指す表現の基本単位で、これは非常に独特な写真へのアプローチだといえよう。この場合、「何を撮るか」はあくまで撮られる対象の「内面」ではなく「形象」にのみ従って選択され、そこに更に「フィルムの何番目にそれを撮るのか」という通常なら問題とはされない課題が浮上してくる。何番目にそれを撮るかによって、出来上がる印画紙全体の形象は決定的に左右されるからだ。ところで、去年以降、彼の方向は大きく転換しつつあるようだ。これまでの一列に整然と並んだフォーマリスティックなスタイルは破棄され、多くの写真を切り貼りして一つのイメージを作るスタイルになってきた。ここで我々はついホックニーのコラージュ写真を思い出してしまうのだが、『旗と観光船』のように形式的なアプローチを保ちつつこのスタイルを試みる時に、彼のこの路線はホックニーから最も離れ、うまく行くようだ。

今月の2本
(1)2H(1999龍映、李纓監督)
ようやく『2H』が正式に公開されたことを心から祝福しつつ、この文章で微力ながらのエールを送りたい。この半ドキュメンタリーは、中国人監督によって撮られた中国人を主人公にした映画であるにも関わらず、一方で紛れもなく日本映画であるという点が、監督の李纓、及び主人公の馬老人、そしてこの作品自体の位置している複雑な地点を象徴的に示しているのだ。96歳の馬氏は日本で余生をひっそりと暮らしている中国人だが、実は20世紀の中国史において極めて重要な役割を演じた人物で、なんでこんな大物が誰にも知られずに晩年を日本で過ごしていたのかと驚くばかりだ。カメラは一切の説明を排して事物を見据え続けるが、最後の、馬氏の棺をかついだ人々がマンションの階段をぐるぐると降りてゆくシーンでは、忘れがたい長回しに(たしか)初めてのオフの音楽が延々と流れ、それまでの内に抑えた感情は解き放たれてゆく。諏訪敦彦がフィクションの側からドキュメンタリーへと接近するのに対し、『2H』での李纓はドキュメンタリーの側からフィクションへと接近する。1年前に瀬戸内海は佐木島で両者の最初の出会いを目の前で目撃したが、ある意味では二人の映画へのアプローチは非常に共鳴し合うものがあり、そのことを二人とも逢う前からお互いの作品を見ていて直感的にわかっていた。「天安門の前に来日して、亡命者になった気がした」と語る李纓にとって、祖国・中国というテーマは根本的なものだが、諏訪敦彦にとっては、「日本」というテーマはそうではない。これはまた日本の大部分の表現者にも通底する特徴かもしれない。李纓は既に第2作『飛呀飛』を完成させているが、『2H』よりもフィクション度がはるかに増したにも関わらず撮り方はドキュメンタリー的、というそのずれの様態は興味深くもあり危なっかしくもある。『2H』は渋谷・イメージフォーラムにて朝9:30と夜21:00の1回ずつ上映中。
(2)ノスフェラトゥ(1922ドイツ、F.W.ムルナウ監督)
別ネタをゼロから考える心の余裕がもうこれ以上なく、今かかりっ切りになっているこの映画のことを書けばその手間が省ける、ということでハイ『ノスフェラトゥ』。ムルナウ映画全体についてはまたそのうち書くとして、自分が一体何をやるのかという話をします。全くご存じない方のために簡単に説明すると、要するにこれはサイレント映画にライヴで音楽をつける、というシリーズの1回目で、なぜか僕に白羽の矢が当たってしまった。予算的なこともあり、今回は生楽器は一切使わず、すべてうちの機材(といってもそんな特別なものはないのだが)で作り込んだものを会場に持っていって操作する、という形。誤解を招くインフォメーションも流れてしまっているけれど、「即興」ではありません。ただ、4回やる間に映像とのタイミングや音量&パンのバランスなどは多少変わるだろう。基本的な姿勢は、いわゆる無声映画によくつけられる「メロディ+伴奏」タイプの音楽には全く背を向け、無意味・有意味両方の音響を操作して音響と映像との間に何らかの関係性を生成せしめようというもの。ここではもはや効果音と音楽との境界は全く消滅している。『M/OTHER』がそうだったように、映像と音との幸福な一致をはなから目指していないので、映像のみに集中したい方にとってはあるいは音響が異物として映像に専心したい心を惑わすことにもなるかもしれない。先に謝っておきます。しばらく前に「東京の夏」の映像+音楽特集について「図書新聞」紙上で言いたいことを言ってしまったので、はたしてそのしっぺ返しが来るや否や。12月14日、15日、ともにPM6:30、8:30の2回公演、下北沢、北沢タウンホール。お問い合せは090-7171-0900(C計画)まで。




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