2000 10月
今月の展覧会(今月は写真展を2発。)
今月の1本
1997
1998
1999
2000
(1)トマス・シュトゥルート(〜12月9日、京橋・近代美術館フィルムセンター展示室)
いつの頃からか何となくトマス・シュトゥルートの写真を知るようになったが、最初の印象は「建築物の垂直なラインがやけに目立つ」という感じだった。画廊の狭い空間の中で四方をコンクリートとガラスの建築写真に囲まれていると、その、同じ撮り方で統一されたフォーマリスティックな空間の縦のラインが気になってくる。それから何年もの間、シュトゥルートは、確かにある種の個性は持っているものの、それをどう語ったらいいのか言葉に詰まる、というタイプの写真家であり続け、今でもそうかもしれないのだがこの個展を期に語ってみよう。シュトゥルートの写真は、彼の師でもあるベルント&ヒラ・ベッヒャーの強い影響抜きにはあり得なかっただろう。このベッヒャー夫妻の産業建造物写真を近年なにかと目にするような気がするのはどういうわけか。実は密かに流行っているのだろうか。彼らの写真は、ある意味で非常にミニマルなスタイルを徹底的に推し進めたもので、シュトゥルートと根本的な姿勢は共通しているといえる。ベッヒャーはおいといて、シュトゥルートは、何を被写体にしようとも固定された堅固な物差しのような同一のアプローチで対象を切り取っているように思える。極力主観性を廃し、ただそのものがそこに「ある」ことだけを告げるための写真。これは、写真が客観的なメディアだと信じている向きにはどうってことない当然の話だろうが、実は大変なことである。写真家の主観を廃するために、彼は撮る側の技法の多彩さを厳しく律し、自分の技法を均一性にまでわざわざ追い込んでゆく。だが、それが結局彼の個性になっているのだから、所詮その理念は理念でしかないことは本人が一番よくわかっているはずだ。
(2)ベッティナ・ランス(〜11月6日、新宿・小田急美術館)
もともとベッティナ・ランスはポートレイトの写真家としてやってきたが、『なぜあなたは私を捨てたのか』や『閉じた部屋』などのシリーズものは様々なモデルが同じようなシチュエーションに入れかわり立ちかわり現れるとはいえ、そこに物語性はなく、1枚の写真はそれ1枚で一応独立していた。一方、今回の『I・N・R・I・』というキリストの生涯を題材にしたシリーズはセルジュ・ブラムリーのテキストとの共同作業になっていて、明確に物語性がある。単に物語性のある写真連作なら珍しくも何ともないのだが、ここで興味深いのは、この写真のどれもが、単独性と連続性との微妙な中間地点に位置している、というそのあり方においてに他ならない。端的に言えば、シリーズとしてはイエス・キリストという一人の人物の物語なのに、その誕生から死、そして復活に到るまでのどの写真もみなすべて異なるモデルを被写体に使っているのだ。キリストのみならず、出てくる人物はみなすべてその写真1回きりの登場で、総勢250人以上のモデルが起用されたという。これだけでも既に物語の連続性は引き裂かれているのに、その背景も、当時らしくあつらえるのではなく堂々と現代だったりどこでもない想像上の空間だったりして、「正しい時代考証」などというものに彼女ははなから関心がない。こういうアプローチによって、1枚1枚の写真はその人物のポートレイトとしての側面を強調され、物語性は希薄になってゆく。しかし、それでも依然として物語の連続性は強く残る。なぜから、それが誰でもが知っているイエス・キリストの物語だからだ。この絶妙なあいまいさを端的に表す一つの例が磔にかけられたキリストの写真なのだが、ここでのモデルは女性であることによって既に本物らしさから遠く隔たっており、独立した1枚のヌード写真になっていると同時に、でも誰が見ても磔刑のキリスト以外の何者でもない、というところで物語にも強く牽引されているのだ。
濡れた二人(1968大映、増村保造監督)
11月4日から渋谷ユーロスペースで始まる増村保造のレトロスペクティヴは全50本という大規模なもので、全作品の約9割を占めている。これは確かに快挙には違いない。だがふと洩らす一言、今回も外された晩年のイタリア映画『エデンの園』を見られるのはいつの日か。それはそうと、大映HPの増村ベスト10に『濡れた二人』も『遊び』も影も形も見当たらないのに腹を立てたので、こういうことは滅多にやらないのだが、ここに順不同で増村ベスト10を選出する。『清作の妻』『濡れた二人』『遊び』『赤い天使』『妻は告白する』『くちづけ』『大地の子守歌』『兵隊やくざ』『陸軍中野学校』『偽大学生』。『濡れた二人』は、物語的にはテレビの昼メロあたりにもよくありそうな、ありふれた不倫メロドラマに過ぎないような題材なのに、それがどうして増村の手に掛かるとこうも濃度200%の、どこを切っても映画と呼ぶしかない代物に変貌してしまうのか。ひたすら若尾文子を見つめ(睨み?)続ける北大路欣也の視線の強度は、バス停に佇む若尾と夫の周りをバイクでグルグル走る時に頂点に達するが、あそこの撮り方はおよそ「疾走するバイク」などという爽快なものではなく、疾走感はいちいち細かいカット割りで断絶させられ、後には睨みつける北大路の視線の強度だけが残った。若尾は北大路のように強い視線で人を見返すわけではないが、夫も北大路も失った雨の夜、雨戸を開け放って庭の闇の中へ注がれる彼女の透明な眼差しは何を見据えていたのか。思えば、北大路の視線が常に若尾文子という現実の女性へと注がれていたのに対し、若尾の視線はいつもこの退屈で「生の意味」の見出せない現実を越えた彼方へと向けられていたわけで、この視線の行き違いは初めから二人の破局を約束していたのかもしれぬ。増村映画では、闘い抜いた末に現実に敗北した時、そこに恩寵が訪れる。『遊び』で、あらゆる現実の汚穢をかなぐり捨てて逃げて逃げて、たどり着いた旅館で迎える初夜の部屋で、フレーム前面に巨大な赤いぼんぼりの円が入ってくるのを目撃する時、背筋を戦慄が駆け抜けるのを覚えずにいることは難しい。
1996
[4月の鈴木治行のすべて]
[5月の鈴木治行のすべて]
[6月の鈴木治行のすべて]
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(c)2000 Haruyuki Suzuki