2000 8

今月の1曲
小杉武久/catch wave '71(1971)
小杉武久の音楽は即興が主体なので、録音しておかない限り跡形もなく消えてしまう。catch wave というタイトルを持つ作品のシリーズは1967年に始まったが、この『catch wave '71』は、NHK電子音楽スタジオで制作されたこのシリーズでは唯一の「テープに固定された」作品なので現在も残っているものの、これ以外の他の catch wave は残ってないどころか既に破棄されてしまっているらしい。「波」をコンセプトのベースに据えた音楽は彼には沢山あって、可聴帯域を上回る高周波同士を掛け合わせた時に出る差音が可聴帯域内なので音の波として聞こえる、という現象(ヘテロダイン)をその基本としている。複数の周期も振り幅も異なる波を掛け合わせれば、そこから立ち現れる新たな波は誰も予測不可能な複雑な様相を呈しているはずだが、そういった電子回路による不確定性を生演奏とぶつける、というやりかたで様々な「作品」(と言って本人は否定するだろうか?)が生み出された。その生演奏が確定か即興かによってまた事態は変わってくるのだが、おそらく器楽部分は確定であると思われるハープのための『ヘテロダイン』では、ハープのパートはほとんど調性的あるいは旋法的なアルペジオを奏し続ける。このアルペジオ自体が一つの「波」になっているわけで、器楽の波と電子の波が相互干渉し合う現場を聴く者は「観察」することになる。さて話を戻して『catch wave '71』だが、テープに完全確定したからといって、こういった彼の姿勢の根本はいささかも変わってはいない。この作品の素材は、波(現実の)、鳥の声、人の声、ヴァイオリン、ソプラノ、電子音などだが、ヴァイオリンは即興演奏(おそらく本人の)で、電子音は例によって電子の波の干渉によるもの、それらに自然の波がそれぞれ独立した周期を以て重ね合わされる。詩的な言葉の断片(「光」「わたる」「そよ風を見る」「空を飛ぶ」etc...)が全編に散りばめられ、小杉としては珍しく音響を詩的イマジネーションの側に(不確定的に)牽引する。これらの言葉は電子の波の干渉を全く受けていないところからして、上の音響とは全く別に後から重ねられたものだろうが、ナレーターによる明確できれいな発音、という選択は、声の音響性よりも言葉の意味性をこそ強調する、という彼の意図を示している。これとは別に音響の側に寄った声の使用も出てくるのではあるが。こういった言葉の使用からは、近藤譲の初期傑作『ブリーズ』を想起することもできるがそれはまた別の話。ともあれ、この作品も含め、1970年前後は日本の電子音楽の世界的な収穫の時期であったことは間違いない。

今月の展覧会
ジョルジュ・ルオー(〜9月24日、有楽町・出光美術館)
ルオーはもともと好きだったが、彼が野獣派の画家として語られると非常に意外な感じがする。これほど信心深く敬虔な野獣が世の中に存在するのだろうか?もちろんスタイルとしてはわかるものの、他のフォーヴの画家、マルケやドランやヴラマンクとは異なって、彼の絵画での強烈な色彩の対比的配置は少年時代に自らも職人に弟子入りしていたステンドグラスから来ていることは明らかだろう。いま、油絵をここでの考察の対象に限定すると(水彩画はまた描き方が若干異なる)、人物は、背景と同等のものとして色彩配置の中に埋没させられることはなく、いつも黒の太い輪郭線で周囲とは別のものとして浮き立つように描かれる。彼のステンドグラス的な極彩色は宗教(キリスト教)的崇高の理念の具現化で、この一点において、他の点では全く似ていない師のギュスターヴ・モローの色彩のあり方と共通する。あのような極彩色の背景の中に人物を置いて浮き立たせようとするのなら、太い黒で色彩を切り裂くように置かないことには周囲の色に負けてしまうのだろう。彼が人物の顔だけを描く時、そのアングルはほとんどの場合正面か側面のどちらかになることが多いが、これによってその人物を現実界から引き離し彼岸の彼方の崇拝の対象としてイコン化する。あるいは全身像を描く時、ルオーの人物の身体は関節ごとに黒い陰影のラインで区切られ、一見まるで体の部位ごとに別々に作って後でつなげられた木彫りの人形のような異様な様相を呈するのだが、これは別の見方をすれば全身を拘束された受苦の人間存在のアナロジーだとも言える。晩年に近づくにつれて、彼の絵画の絵の具の盛り上げは次第にその度合いを増し平面性から脱して、例えば古代の遺跡から発掘された石に刻まれた人物像、のような様相を呈してくる。つまり時空を越えた人類に普遍的な存在になってゆく。

今月の1本
パンと植木鉢(1996イラン=フランス、モフセン・マフマルバフ監督)
2年前パリに滞在していた時、「無垢な瞬間」というタイトルのマフマルバフの映画がかかっているのを発見し一も二もなく映画館に飛び込んだのだが、見ているうちにどうも随所に見覚えがある気がしてきてやがて確信に変わったそれこそは、前に東京国際映画祭で見たことのある『パンと植木鉢』なのだった。タイトルが全く変わってしまっているので見る前にわからなかったのだが、もう2度と見れないかもしれないと思っていたこの傑作にもう一度あいまみえることのできた僥倖を祝福した。それから2年後、他の数本とともに遅ればせながらマフマルバフ映画の正式な日本公開が実現したのは真に喜ばしい。とはいえ、まだまだマフマルバフの全体像が見えているとはとても言えず、今後続けてマフマルバフ作品が輸入される事態になるように祈りつつ、ここで取り上げることで微力ながらエールを送りたい。マフマルバフはイラン映画の顔としてキアロスタミと並んで世界的に注目されている存在だが、そのスタイルはかなり異なっている。キアロスタミは初期から割と一貫したスタイルを保っているが、マフマルバフはといえば、作品によってだいぶ傾向が異なるようだ。80年代の『行商人』や全イラン国民が見たという(まさか!)『サイクリスト』にはまだ通常の劇映画的な演出が見られ、子供映画のイメージばかりが流通してきたイラン映画にもアクションがあるのだという考えてみれば当然のことが確認できるが、近年は僕の知る限りでは通常の劇映画的な作法からは遠く離れつつある。90年代後半に入ってからの『ギャベ』、『沈黙』などには時に「作りものらしさ」をも恐れないどころかそれを大上段に振りかざしても誰をも納得させてしまう瑞々しい映像の力が漲っている。『パンと植木鉢』での虚と実とを入り組ませる作り方はキアロスタミ経由なのかもしれないが、例えばラストの、囮として警官に声をかける少女のアップと警官のそっと腰のピストルにかける手のアップの切り返しの息を飲む緊張感は、ロッセリーニを継ぐキアロスタミの映画ではあり得ず、ここにおいて、ロッセリーニとグリフィスのモンタージュ精神とがマフマルバフという名のターミナルにおいて交差する。千石・三百人劇場にて上映中。

今月のマンガ
おいしいお菓子(1986、西秋ぐりん)
そう多作家とは言えないし現在どうしてるかもよくわからないのだが、西秋ぐりんはちょっと気になる存在ではあった。彼の作品においては、一見描き込みの少ない白っぽい画面が続く。トレードマークのようになっているロリ系の少女が必然的に一つの作品の中での磁力の中心となる。絵柄からするとかわいいほのぼの路線のように見えるのも無理はないのだが、かわいさを押し出すというよりむしろオブラートに包まれたソフトな無意味さがあたりに充満する、という感じで珍しいタイプだといえよう。そのキャラのロリ性、何かといちいち繰り出される性的な引き、ナンセンスさにおいてはやはり自らもファンであったという吾妻ひでおからの影響が強いのだろうが、吾妻が時に発揮する動的なドタバタは西秋にはないし、吾妻の方は西秋よりもはるかに背景や影を描き込んでいてそう画面が白っぽいわけでもない。そう、この妙に白っぽい脱力感は一体何なのだろう。また、西秋に比べると、吾妻の方がはるかに自分の描くものに執着があるように思う。要するに吾妻の方にはリビドーを感じるのだ。では西秋ぐりんは単にやる気のないマンガ家なのかというと、実はそうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。描き込みが少ないことが即ち脱力感を醸し出すことを約束しはしないから、これはやはり意識的な狙いでやっているのかもしれない。これより2年前の『カゼガフレタ』とは基本的に同じ路線だが、5年後の『チチンプイプイ』になるとCGによるギザギザのラインがまたひと味違った脱力感へと我々を導く。でもそれももう9年前の話で、彼のその後は僕が単に情報に疎いだけの可能性もあるが、わからない。




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