2001 3

今月の1枚
ローリング・ストーンズ/Beggars Banquet(1968)
先月ほとんど話が脇にそれて終わってしまったので、引き続きストーンズ第2弾。
前回ビートルズとストーンズという話をしたが、改めて整理すると要するにビートルズはロックを拡大し、ストーンズは徹底化した。上下はつけたくないけれど、ことロックにこだわる限りストーンズの掘り下げた深みを侮ってはいけない。本人たちにはそんな意識はなかったであろうにもせよ。60年代はこの両者が競合していた時期で、だいたい同時に出発し、初めは既成曲のカヴァーをやっていたのが次第にオリジナルを作り出す、というところまでは一致している。その後コンセプト・アルバムという概念が重要なものになってきてビートルズが『サージェント・ペパーズ〜』を出すとストーンズは『サタニック・マジェスティーズ』を出して対抗するが、このサイケデリック路線はストーンズにとっては肌に合わないものだったのは、ビートルズのサイケがミュージック・コンクレートの成果を踏まえたもので、つまりリズム&ブルースやビート、リフといったロックならではの要素に背を向けるものだったからで、1枚出してみてこのことに気づき以後軌道修正したのは正解だった。具体音とビートを矛盾なく融合させるにはサンプリングの時代を待たねばならない。次に出した『ベガーズ・バンケット』はもはや進むべき道の迷いを吹っ切った傑作で、それまで無自覚だった自らのルーツにここで目覚めたのだろう。それまでにも時々発現していた呪術指向が確信を持って打ち出される。今更の言わずもがなではあるが、ビートルズがあくまで白人のロックなのに対しストーンズのロックのルーツは黒人音楽で、それを支えるリズム・セクションの強靱さが死命を制する。その点、結成時からのドラマー、チャーリー・ワッツは素晴らしい。一人になるとジャズ好きでビッグバンドなどもやってしまうところがおかしいのだが。土台リンゴ・スターとワッツとではドラマーとして勝負になるまい。そういうわけで、ストーンズ以後の黒人音楽ルーツの白人バンドは良くも悪くもストーンズを避けては出発できなかったろう。初期エアロスミスがいかに深いストーンズの影響下から出発したか想起すること。さて、もはや急がねばならなくなってきた。ストーンズは70年代頭まで、という声もあるようだが、僕に言わせればストーンズの全盛期は80年代の頭まで続く、とだけは言っておこう。60年代は荒削りながらの原石の輝きがよかったのだが、60年代中に提示された資質は70年代を通して洗練されてゆく。ほんの一例として、『Dancing With M r. D』のような曲は60年代だったなら作り得なかった。ここでは、どろどろした呪術性がその始源的生命力を損なうことなく高度な洗練を経て迷いなく提示されている。ごく限られた者しかこの地点にまで到達することはできないのだ。

今月の展覧会
ヤノベケンジ(〜4月15日、銀座・資生堂ギャラリー)
近頃あちこちでヤノベ作品を目にしているような気がする。彼の「アトムスーツ」などの疑似SF指向は、60〜70年代にかけて日本のテレビ番組を見ながら育った世代なら違和感なく理解できるのかもしれない。単にSFであればいいのではなく、それが昔の日本の子供向けSF番組に見られたようなハリボテのチープさを備えていることが重要なのだ。彼のこういう志向が自分の表現の方向として戦略的に選び取られたものなのかどうかはこれまでのところ不鮮明だった。今、表参道のレントゲンクンストラウム(〜4/28まで)でもやっている個展を見ると、小、中学生の頃に作った作文とか怪獣とかも展示されていて、出来の具合とかコンセプトの洗練度を別にすれば、なるほど今やっていることと方向性は全く同じではないか。つまり彼はあくまで個人的な記憶と好みに忠実なのであって、そこはもっと意図的/戦略的な村上隆のDOB君とは異なる点だろう。子供の頃に大阪万博の跡地に立った時のシュールな廃墟体験について、ヤノベ自身何度も語っているが、彼のオブジェは確かに未来の廃墟の中においてこそその最もふさわしい居場所を見いだすのかもしれない。例えば『ウルトラマン』でいえば、シーボーズが宇宙に帰れずにさまよう夕陽の風景の中とか、ガバドンが消えてゆくそこはかとなくもの悲しい空き地の風景の中、などをヤノベ作品の設置場所として推奨したいところ。
さて、これまで書いたのはつまるところ空間的な素材の嗜好の話だったが、そこに更に時間的な要素として彼が導入するのは放射線による「偶然性」で、ガイガーカウンターを備え付けたアトム・カーとか中を覗き込む仕掛けのミニチュア映画館とかで、放射線の当たる当たらないという全く人為的にはコントロールしようのない偶然性を作品に取り入れることで、同時に観客参加も促す。この型の作品に参加するというシチュエーションが何を意味するのかといえば、SFでありがちな、第3次大戦後の放射線の降り注ぐ地球でサバイバルする私たち、というやつなのだった。そう考えると、放射線の導入は彼の近未来の廃墟的世界に一致し、かつそれを時間軸的な展開の可能性に向けても開いた、ということで、よかったのではないでしょうか。ちなみに、この資生堂ギャラリーでの展覧会は、キューバの若手作家カチョーとの共同展になっている。

今月の1本
見出された時(1998フランス/ポルトガル/イタリア合作、ラウル・ルイス監督)
日本ではまだほとんど知られていないラウル・ルイスは、聞いた話では実は活動拠点フランスでも知られているとは言い難いらしい。生まれ故郷チリで既にキャリアを重ねていながら政治的迫害を逃れてフランスに亡命し、はや30年弱。既に撮った作品は100を越えるそうだが、これまでにやっと見ることのできた数少ない作品からでも、一般受けしない理由はよくわかる。とはいえ、近年の作品にはかなり豪華なスターが出まくっているところを見ると、それだけの大がかりな仕事を任される信用はあるのだろう。ルイスを映画史的に位置づけるとどうなるのかは難しいが、少なくともヌーヴェル・ヴァーグ的な演出とは対極にあって、役者もカメラも入念に計算され尽くして配置、演出され、ドキュメンタリー的アプローチによって現実の空気を映画に取り込もうなどという気は毛頭ない。その入念な演出がかなり独自にマニエリスティックなのだが。この『見出された時』はプルースト『失われた時を求めて』の最終篇の映画化で、ルイス自身「自分のこれまでの映画はこれを撮るためにあった」とまで発言するほどの入魂の作。大勢の登場人物たちが複雑に交錯する中、夢とも現ともつかぬ時空間が織りなされてゆく。全体に通底するその夢魔的な感覚は、自分の人生を回想する老年の主人公、少年時代の自分、「語る私」が、分離されながらも境界線が曖昧になるように同じ次元の空間の出来事として演出されていることや、流体的に動き回るカメラワークなどにも由来するが、時々使う、「人物が歩いてもいないのに音もなく空間を移動してゆく」演出によっても更に強められる。例えばカメラが緩やかに人物の周りを回り込みながら、当の人物自体も(おそらく下に敷かれているであろうレールの上の台車か何かの上に乗って)よく見ていないとわからないぐらいの緩やかさで動かされてゆくと、見ている方としては空間上の人と人、人と物との間の距離感が狂って空間感覚が失調する。だがこういった夢魔的な感覚はこの作品だけではなく他の映画にも共通してあるので、プルーストだから殊更こういう方法を採ったということではなく、彼本来の語り口なのだろうが、その彼の資質がプルーストと共振したのは当然といえよう。本作公開が、日本への本格的なルイス映画の皮切りにならんことを祈る。『見出された時』は、日比谷、シャンテ・シネにて4/27まで上映。

今月のマンガ
タラチネ(2000、南Q太)
内田春菊や岡崎京子や桜沢エリカがそれまでの少女マンガとは一線を画す新しいタイプの女流として一躍脚光を浴びて登場したのも既に今は昔のことではある。そこでの世俗的な注目ポイントは従来の少女マンガでは考えられたかったあけすけな性描写だったが、それも今ではあとに続く世代もいろいろ現れ、珍しいことではなくなった。南Q太はその路線の比較的新しい世代を代表する作家、といってよいだろう。南Q太が最初の単行本を出した1996年以来、ここ5年の間ののび方は凄いと思う。『かみさまお願い』あたりはまだちょっとという感じもあるが、次の最初の長編『さよならみどりちゃん』はもう既に抜きん出ていて、更にこの2年ほどの作品群でマンガ表現の一つの頂点に立った。絵的な面でも年々抜群にうまくなっていて、初期にはもっとでかく描かれていた目が次第に小さくなってゆくにつれて(今くらいが丁度いいと思う)、性的事象が作品内に占める割合も緩やかに減ってきた。というか、その他の人生の諸々のことへの関心が増えてきたので相対的にそう見えるというだけのことなのかもしれない。近年は個人的な家庭の事情も反映してだろう、「子供」というテーマも比重を増してきている。また、描く顔のボキャブラリーも多くなり、描く作品世界と自分との間の距離をコントロールする余裕が出てきたのを感じる。かつて身近な恋愛模様から出発した岡崎京子が、やがて一際スケールの大きい世界へと対峙するようになっていったのと似た方向への歩み出しの初めの段階に、南Q太は今あるのだろうか。南Q太の場合は誰かも指摘していたように主人公の女性は基本的に世界に対する向き合い方が純粋で、ただ合目的的には行動しないためによるべなく「ゆらゆら」しているように見える。簡単に寝るからといって純粋でないことにはならないのは言うまでもない。男にだらしなかろうが酒癖が悪かろうが、彼女たちは単に自分の瞬間瞬間の感情に忠実であるだけなのだ。こういった一途さは、むしろ純情な少女が主人公の正統的少女マンガの伝統を継承している。ただ違う点は、かつての少女マンガの少女が一人の意中の男に一途だったのに対し、南Q太の女性は自分の感情に対して一途だということだ。また、主人公に限らずあらゆる人物が瞬間に生きて行動しているため(それがリアルということだろう)、話の展開は先の読めないものとなり、瞬間の強度はいや増す。一方内田春菊ともなるとこれがまたなんとも世界への対峙の仕方がひねていて、よくここまで醒めた視点で世界に向き合えるものだと感心もするが、その話はまたいつかということで。




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