2000 12

今月の1曲
ベルナール・パルメジアーニ/Du pop a l'ane(1969)
今から4 0 年近く前、パリのミュージック・コンクレート/電子音楽の重要拠点GRMはフェラーリ、マーシュ、パルメジアーニ、マレク、ベイルらを擁していたが、少なくともこのうちの初めの3人がここに一堂に会していたというのは思えば凄いことだ。同時期にこれだけのレベルの作曲家を擁していた電子音楽スタジオは後にも先にもないだろう。このうち、フェラーリの評価は近年現代音楽外の領域の先導という形で進みつつあり、マーシュは80 年代にMusic Todayでの個展で来日しているが、パルメジアーニだけはいまだ日本では人の口の端に上ることさえ滅多にない。かくいう僕も彼の作品をそう多く聴いているとは言えない状態なので、全体像について語れるのはまだ先のことになるだろう。それにしてもこのディスクは素晴らしい。ここに聴かれる音のセンス、ユーモアの感覚、即興素材の取り込み方、ポップさなどはフェラーリの音楽とも共通している特質だが、どこかが決定的に違う。しかし、収録されている4曲ともまたそれぞれかなり違うので、これがパルメジアーニだ!という特徴を断定するのは現時点では難しい。『Du pop a l'ane』は矢継ぎ早に繰り出される既成曲を中心としたコラージュ風の作品だが、それが単なるコラージュになっていないのは、お互いの素材が音的に何らかの関連性を持ってつながれて行くように周到に用意されているからに他ならない。いわば音による連想ゲームとでも言うか。それも、連辞的な横の関係のみならず、複数の全く異なる素材が絶えず重ね合わされていて縦の音響関係においても何らかの音楽的な意味が発生するように仕掛けられている。例えば、ビートの明瞭なリズムを主体とした既成曲が引っ張って来られる箇所では、全くスタイルの異なる音楽が、ただ定常ビートという一点において離れ業のように強引に結びつけられる。中間部でのドアーズのベースのリフが反復される箇所では、原曲も備え持っている不穏な「予兆」を感じさせるフレーズに、同じく「予兆」的なクラシックの弦楽四重奏の響きが重ね合わされ、弦楽四重奏は「ユニゾン」という共通項を介してメシアンの例の四重奏曲のユニゾン楽章に受け継がれてゆく。ジム・モリソンがシャウトして一瞬盛り上がる波の頂点には『コンタクテ』の下降する電子音のうねりがジャストで貼り付けられる。終わり近くのロック・バンドのコーラスにはルネサンス合唱音楽が同じ拍で重ねられ、ロックとルネサンス声楽ポリフォニー音楽が「唱和」する、という具合だ。ジョン・オズワルドのプランダーフォニックスの理念が既に30年前にここまでのハイレベルで先取りされていたとは。
(Bernard Parmegiani/Pop'eclectic - plate lunch PL08)

今月の展覧会
ゲイリー・ヒル(〜1月14日、外苑前・ワタリウム美術館)
映像として画面に映し出されたものは、それが見知っているものであろうとなかろうと、それの存在を一通りに確定する前にまだ意味上の留保がついている。存在そのものがぶれている。しかし言葉はその留保/ぶれを許さず、名付けたその瞬間からそのものの意味を一つの方向へ整流してしまう。このずれにことのほか敏感な作家、それがゲイリー・ヒルであり、当然ながら彼の作品には映像とともに言葉が頻出することになる。例えば『URA ARU 』はタイトルにも示されているように日本語の回文を基本構造として、同じ文字からなる素材が、順序が逆になるだけで全く別の意味に変化してしまう事態を映像と文字とを二重写しにするスタイルを貫きながら追った作品だった。今回のワタリウムの展示はまだ見ていないので具体的なことは書けないが、なんでも体感型インスタレーションらしいということで、これまでの映像作品とはかなり趣を異にするものなのかもしれない。かつてはシェイプド・キャンバスを主体に油絵の筆のタッチを全面に押し出した作品を多く描いていた関口敦仁が、去年のアート・ラボのハイテクの体感型作品では大化けした前例もあるので、ゲイリー・ヒルももしかしたら今回スタイルの変化に伴って大化けしているのかもしれない、という密かな期待を抱きつつ足を運ぶこととしよう。

今月の1本
夜と霧(1955フランス、アラン・レネ監督)
たまたま今、レネと直接的につながる映画の作業にかかっているせいもあってレネのことが頭の中である位置を占めており、そこへもってきてこの度レネの旧作3本が久々に上映されるというので、これを取り上げることにしてしまった。とはいえ、『夜と霧』を見たのはかなり昔で、それ以後見返してはいないので記憶がかなり曖昧になっているということはお断りしておかなくてはならない。さて、『夜と霧』は言わずとしれたアウシュヴィッツのドキュメンタリーだが、ここでランズマンによるかの9時間半に及ぶ『ショアー』を引き合いに出したい誘惑に駆られる。『ショアー』が徹底してホロコーストその後の「現在」しか映そうとしないことによって、覆水盆に返らぬ絶対的喪失としての「過去」を逆照射しようとしたのに対し、『夜と霧』には過去の映像がふんだんに出てきたと思う。しかし、悲劇の痕跡を見せることでへたな感傷へと見る者をいざなうような愚行を回避しようとするレネのこの映画の中では、無人の収容所も遺品の数々も突き放された無言のオブジェとしてただそこに映し出されているばかりだ。ところで、今回上映されるレネの3作品はみな何らかの形で時間を主題に据えているといえよう。『夜と霧』は遺物を冷徹に見つめることでその遺物が確かに存在を証明するはずの過去を彼方に見つめ、『二十四時間の情事』は相容れない会話を通して過去を事実と空想のあわいに落とし込みどこまでもぼかし、『ミュリエル』では意図的な時間軸の交錯がモダニズムの手つきで実践される。1/20〜1/25、千石・三百人劇場にて上映。

今月のマンガ
美神たちの丘(1994、上杉可南子)
上杉可南子に関しては、絵的にはほとんど完璧なまでに好きで、そのコマ構成にもスクリーントーンによる陰影の付け方にも高度なセンスと技術を感じる。殊更特異な絵ではないけれど、ある意味で少女マンガのエクリチュールを正当に継承したスタイルに迷いはない。だからつい読み続けてしまうのではあるが、結局いつも残る不満な一点とは何なのかといえば、それは絵の問題というよりはむしろシナリオ上の問題で、男女の間にいろいろ波風が立っても結局は小市民的平和に収まって終わる、というその世界の構築の仕方、というか要するに世界観に関わる事柄なのだった。これが陸奥A子なら、初めからそういう世界であることが大前提になっていて、その世界の中から外に出ることなくある意味予定調和の中で円環が閉じることを味わうべき作品として納得できるのだが、上杉可南子はそういうスタンスとは違うはずだろう。恋愛を軸にしたサスペンスで事件が起きて、最後はめでたしめでたし‥‥というよくある設定はいいとしても、それならば一条ゆかりくらいに開き直って徹底的に飛躍して行くところまで行って欲しい。それが確信犯的エンターテイナーの道なのだ。そうでなければ、それをはみ出すのであれば岡崎京子や岩館真理子の荒野への道を選ぶかどちらか。しかし、ほどよく手に汗握って、ほどよく泣いて、最後は古典的な愛の成就の幸福でめでたしめでたし、という物語はやはりいつの世でも万人の求めるものなのだろうか。




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