2001 7

今月の1枚
ピーター・アプリンガー/Peter Ablinger(2000)
この作曲家についてはこのディスク1枚でしか知らないので、その他の判断材料はない。
この中には90年代の3曲のアンサンブル作品が収められていて、90年代前半に書かれた初めの2曲(『Der Regen, das Glas, das Lachen』『Ohne Titel』)にはある共通点があり、最後の近作『Quadraturen IV』は他の2曲よりもいささか距離がある。90年代以前については不明だが、これで聴く限りは、アプリンガーは音楽をナラティヴに展開させてゆくことに全く関心がない。一曲全体を終始一貫して一つのトーンが統べており、たまに入る全休止がそのテクスチュアに裂け目を入れる。たとえて言えば、ニューマンの絵画で一つのカラーがドーンとキャンバス全体を覆っている中に別のカラーが垂直に切れ目を入れるような感じ、っつーか。しかし、厳密にはその「一つのトーン」の中身は文字通り全く同じ音響というわけではない。どう考えても実験音楽ではなく前衛音楽で育った人であるアプリンガーがそんなことをするはずもあるまい。初めの2曲に関しては、細部のレベルで言うと、大きく2つの層から成っていると言えるだろう。一つは、様々な楽器が立ち現れては消えつつ受け継がれてゆく、オクターヴの反復を基調にした音響で、結果としてこれは一種の保続音的な役割を担っている。要するに、音程だけ限定されて音色がコロコロ万華鏡のように入れ替わってゆくというテクスチュア。そこに、特殊奏法を多用したノイジーかつフレキシブルな各種音響が現れては消えてゆく。『Der Regen,〜』の方が楽器が多いためノイズのヴォキャブラリーは広く、その層も厚い。どうも本人はノイズというか、非楽音を音楽に取り込むことに関心を持っているらしいのだが、殆ど近い手法でも『Ohne Titel』の方はノイジーさはそんなに前面には出ていない。その非楽音への関心が具体音の使用となって現れたのが3曲目の『Quadraturen Ⅳ』。ここではアンサンブルはみな同一リズムで動き、そこに時折街で録ってきた環境音が加わる。とはいえ、環境音はそんなに特別に何らかのコノテーションを強く押し出す使い方をされているわけでもなく、殆どノイズと化している。この1枚だけからの印象では、悪くはないけどそう強くオリジナルとはいえない、というところか。1959 年オーストリア生まれ。
(Peter Ablinger/Peter Ablinger / KAIROS 0012192KAI)

今月の展覧会
福田繁雄展・福田美蘭展(〜9月9日、世田谷美術館)
福田繁雄と美蘭はそれぞれグラフィック・デザインと現代美術の領域で知られた父娘だが、同じ企画の中で一緒に展覧会が開かれるのはこれが初めてであるらしい。領域は違えどもこの二人にはどこか根本的に共通するものがあるというのはかねてより感じていて、それをやっと一つの場所で比較することができる好機が訪れたわけだ。この比較はまた、デザインと美術の境界とは何か、という問題を考えさせてくれるという意味でも貴重である。それぞれの領域における職人的なスキルを前提に、コンセプチュアルなひねりを利かせた制作を行う、というのは二人に共通する基本姿勢で、そこにはひねりだけでなくウィットも利かされている。この常に忘れることのない遊び感覚が、その他のシリアスなイデオロギーから彼らを遠ざける。目の前にあるものしか信じないという姿勢には強く共感するが、ともすればそれが彼らの作品を「軽い」ものに見せてしまうのだろう。キーファーやボルタンスキーのように背後に何か深遠な思想があるかのように見える方が重厚で「本格的」な表現として評価されやすいのはどこの世界でも同じ。ところで、この福田親子の姿勢には違いももちろんある。父の方は、平面、立体どちらを手掛けても、先に述べたように既に自分が手中にしているデザイナーとしてのスキルから離れることはない。一方美蘭の方は、時として油絵のスキルをかなぐり捨ててコンセプチュアル・アートにどこまでも接近することも辞さない。これは、美術とデザインという制度のあり方の違いにも由来するのだろうか。完全にコンセプチュアルな、つまり目の前に見える形象が二次的な、瑣末なものに過ぎないデザイン、などというものがはたしてあり得るのかどうか。美蘭のターゲットは単に視覚的な面白さだけでなく、美術という制度、あるいは著作権という制度など、普段見えなくなっている社会的な諸制度に改めて光を当てることへと向かってゆく。それは確かに面白いのだが、それでもどこか、最終的には「概念のデザイン」に見えてしまうのはなぜだろう。それが親から受け継いだ資質という奴なのだろうか?

今月の1本
焼け石に水(2000フランス、フランソワ・オゾン監督)
2、3年前に初めて日本に紹介された時はそんなには話題にならなかったという記憶があるのだが、最近はいささか様子が変わってきたように思えるフランスの若手、フランソワ・オゾンの長編3作目がこれ。よく「フランスのジョン・ウォーターズ」とか言われていて、悪趣味志向、という点だけ見るとそうも言えるかもしれないが、オゾンはウォーターズよりははるかに演出を考えているはずだ。もっともウォーターズの方は少ししか見てないしこれ以上見るとも思えないので、あまり言及するのは避けておこう。変態でも悪趣味でも一向に構わないのだけれど、そこに何か表現することの「核」のようなもの(なかなかうまく言うのが難しいが‥‥)が見出せないものには惹かれない。長篇一作目『ホームドラマ』では、むしろ変態さを押し出すこと、の方が見ていて強く意識されてしまい、それ以上の興味は持てなかった。次の『クリミナル・ラヴァーズ』は、若いカップル二人が殺した友人の死体を埋めに山奥深く入っていって怪しい山男に捕まり、監禁されるというもので、シチュエイション的にいって『生贄夫人』を彷彿とさせる。ここにも人肉食とかも出てきてオゾン・テイストが満載なのだが、『ホームドラマ』のシニカルな笑いとは一転して純愛も含めたシリアスな出来になった。次がこの『焼け石に水』だが、ファスビンダー原作のこの映画ははたして喜劇なのか悲劇なのかよくわからない。かなり遊んでいるのは確かだが。システマティックな構成が押し出される一方、瞬間芸的な悪趣味演出が後退したのはむしろ歓迎したい。最新作の『砂の下』は再び一転してシリアスなドラマで、シャーロット・ランプリングの夫が海で行方不明になり、その幻影が『オープニング・ナイト』のように彼女の前に何度も出現する。名作『海をみる』を想起するまでもなく、海はオゾン映画では不吉なものとして立ち現れるのだ。こうしてみると、彼は一作ごとに軽めのものとシリアスなものを交互に撮っているのかもしれない。初期の方が才気と悪趣味さが強調されていたが、近頃次第にそういった小さな自意識の露呈よりも「映画」の側に少しずつ歩み寄りつつあるのはいい傾向。その意味で、今のところ『砂の下』が最高作で、次作にも期待。『焼け石に水』は渋谷ユーロスペースにて上映中。

今月のマンガ
ドキドキ変丸ショウ(1999、町野変丸)
町野変丸の作品に一貫しているのは、そのどこまでものっぺりと明るい風土だ。出てくる女の子はみな「ゆみこちゃん」で、彼女の前に現れた「誰か」に凌辱&変態プレーの限りを尽くされる。そこでの「ゆみこちゃん」の反応パターンは、初めは驚き恥じらうが、すぐにも感じ悶えてゆく、という一つのみ。犯す方も犯される方もどこまでも内面を欠き、深さへと向かう誘惑は徹底して退けられる。襲う側の「誰か」は全くどうでもいい存在で、それは人間とは限らず動物でも宇宙人でもありとあらゆる何でも成立し、女の子の丁寧な描き方に比べると極端に落差のある思いつきの落書き絵でしかない。こういう絵で描かれる「人物」に内面などが付随できるわけもないのだった。女の子だけは丁寧でかわいく描かれてはいるけれど、どこまでもステレオタイプに徹することによって内面を排除されている。更にはストーリーをワンパターン化することでも表層化は推進される。例えば朝遅刻しそうになりながら学校に走ってゆく女子高生の前に現れる謎の人物、といったお決まりのパターンなど。そしてその次どう展開するのかはもう言うまでもない。作品を成立させるほとんどの要素が簡便に省略されてゆく。これは本人の言うところをまとめると、一つ一つ考えるのが面倒くさいので労力を使わずにすむように簡略化した結果らしい。
では町野変丸の創作上の主たる関心は一体どこにあるのだろうか、またはそんなものはどこにもないのだろうか、といえば、それは一つしかない。彼は女体が本人の意思によらない外圧で無理矢理奇形的に変形される様を見たいのだ(そしてその事態を女の子本人も恥じらいつつ受け入れ、感じてゆくことも重要)。気がついたら体に変なものが生えていた、とか、乳房が動物のように6つも8つもついていた、などというパターンを描く時彼の筆は冴える。例えば『犬人形』(1995)の中の『TVショッピング』では女子高生を素材に作った「万能リュック」が出てくるが、手も足もないだるま状態の女子高生の中に食べ物や水筒などが次々に入れられてゆく様子があっけらかんと明るいバラエティー・ショーの感覚で描かれてゆく。描きたい核がストーリーでもメッセージでもなく変形された身体であるが故に、今まで知る限りでは、彼の最高作はマンガの単行本よりも画集の方だと思う。




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