2001 5

今月の1枚
ホワイトノイズ/Electric Storm(1969)
クラスターの曲はクラスターではないし、チャンス・オペレーションがチャンス・オペレーションで曲を作っているかどうかは疑わしいのは、ホワイトノイズの音楽がホワイトノイズではないのと同じことである。ストック・ハウゼン&ウオークマンだってシュトックハウゼンとは似ても似つかなくて、あれはシャレでつけたらしいという話もどこかで聞いたが、それにしてもこの前の来日ライヴは思ったよりよくて意外だった。では話を戻して、一体ホワイトノイズでなければホワイトノイズは何なのかと問うならば、それは、時代と見事に添い寝したサイケ・ロックの徒花であるのに違いない。この後出した2枚を聴いていないのでホワイトノイズの全体像については語れないのだが、このアルバムに関しては、これはこの時代この瞬間でなければ絶対に音盤に定着し得なかっただろう何かを丸ごと生け捕りにして後世に残すことに成功してしまった希有の一枚なのだ。作曲と全体のコンセプトはデヴィッド・ヴォウハースが一手に引き受けているようだが、生の楽器/声とサイケなミュージック・コンクレートの絡み合いのバランスが絶妙で、機械化した生音と血の通った電子音響の融合が夢幻的な世界を現出している。すると、我々はこの一枚を聴いている時『生物都市』的なユートピアの中にいるのだろうか?もう一つ興味深いのは、機材の時代的な制約が、ジャンルを越えて共通する特性を同時代の諸音楽にもたらしているのではないかという仮説で、それは具体的に同じ音響を使っているとかいうことではないのだが、ある種の音の質感として感得されるものだ。60年代末なら末の、現代音楽側の電子音楽とこの『Electric Storm』に典型的に現れているようなサイケなロックの音の質感には、明らかに共通する時代性の刻印を感じる。それを解き明かしてゆくには、機材面だけではなく同時代の録音技術水準などの共通性も考慮に入れる必要があるのだろうけれど。

今月の展覧会
(1)前林明次(〜7月29日、初台・インターコミュニケーションセンター)
元々音楽家だった前林明次が、数年のご無沙汰の後にICCに『Audible Distance』を持ってインタラクティヴ・アートの作家として久々に登場した時には、方向の変化に驚いた以上に、彼が、確固とした表現に対する意識とそれを実現する力量を持った作家に成長したのを知った喜びの方が大きかった。僕の知る限りの昔の前林さんの音楽は、素朴な電子音をたどたどしくシンプルに(という表現は価値判断ではないが)扱っていた印象だが、そこには確信というよりはむしろ表現としての迷いの方を感じてしまっていた。その弱さの印象が『Audible Distance』では全く払拭されていて、期待は否が応にも高まった。今回の『[I/O]distant place』では、体験者は無響室の闇の中で椅子に座って音響を体験するわけだが、通常は音楽を聴くその場の反響の度合いなどが響きの質を左右するところを、あえて無響室で聴かせることで場の特性を限りなくゼロに近づけ、素材の音自体をどこまでもオリジナルのまま聴かせようとする。音素材は、本人が訪れた場所で録ってきたという現実音と、そこに道案内役のように現れては消える電子音というのが基本で、それに闇の中で音源が近づいたり遠ざかったり、空間を移動したりという操作が加わる。『Audible Distance』にはゴーグルをつけた被験者が闇の中を歩き回るという能動的な作業があったが、『[I/O]distant place』では被験者は座っているだけなので、被験者の何らかの動作がインタラクティヴに音に影響を与えるということはなく、完全に固定された作品を享受する、という形態に徹している。それにしても、ここで聴く音のリアルな迫り方はこれまでに体験したことはない。リアルといっても、作者が録ったその場に自分がいるようなリアルさではなく、音そのものを今初めて発見したかのようなリアルさというか。そして何より、ハイテクなアートにありがちな、技術を示した次元でよしとしてしまうレベルをこの作品が完全に超えていることをこそ祝福したいと思う。
(2)土屋公雄(〜6月23日、銀座・ギャラリーGAN)
土屋公雄は主に廃材を用いた作品で知られているが、こじんまりとまとめた小品よりも豪快にでかいモニュメンタルな作品の方が彼の持ち味がよく出るように思う。廃材の堆積の中に、雑誌だとか何らかの使い古した調度品だとかが一見無造作にはめ込まれた様は、誰かの個人的な記憶を呼び込むことで作品をそこに見えるもの以上の重層的な存在にしていた。小品では、たとえ焼けた誰かの家の灰を素材にそれをレリーフ状に再構成したりしていても、こうした無造作なはめ込みの豪快さの魅力はなかなか出せないだろうし。ところで、今回の新作についてだが、廃材を用いてでかくて、という意味ではこれまでと同じなのだが、決定的に違うのは、中に入ってゆけるようにドアがついていて、入ってみると中の室の壁一面が様々な時計で埋め尽くされている。そこで人は無数の時計に取り巻かれ、更に聴覚的にも無数の時計の針音の渦に飲み込まれる。内部には、外側とは全く異なる世界が広がっているのだ。外側については、いつになく廃材以外の個人的な記憶を喚起する素材は排除され、記憶にまつわる部分は時計のカオスとしてすべて内部に一同にまとめられた。つまりここで彼は外面と内面を明確に分離して二重の構造にして見せたのだが、これはあまりといえばあまりにも図式的な絵解きではないのか。内面の「心の扉」をあけて「深層」に深く沈潜してゆくとそこには「記憶の部屋」があった。そもそも時計とはもろに時間→記憶を指し示す装置であるが故に、これの扱いは注意を要し、それで失敗した例はいくらでもある。寺山修司だって、古時計を捨てにゆく情景を詠んだ短歌ではすばらしいのに、捨てられた時計の集積を映像化した途端に悲惨に失敗していたではないか。土屋公雄のこの作品は、深層を文字通り図式的に視覚化してしまったが故にどこまでも表層的な次元に留まり続けるしかない。彼がこれからどこへ向かうのか、次回作を待とう。

今月の1本
クレーヴの奥方(1999ポルトガル・フランス・スペイン、マノエル・ディ・オリヴェイラ監督)
人の道に逆行し、年齢とともに若返ってゆく作家オリヴェイラの今回の『クレーヴの奥方』は、文学作品に対するアプローチの仕方においてむしろ『アブラハム渓谷』に近いと思う。どちらも女性の主人公の恋愛人生を描いたとか、そういう物語的な意味で似ているというのではない。淡々とした手つきで既にある物語を映画に置き換えてゆくその冷めた原作との距離の取り方が独特なのだ。冷めているくせに画面の力は圧倒的で、どこまでも奥があるように見える一方、一皮むくとそのむこうは何もなくただ虚構の原作をなりゆきで映画にしただけだとでも言いそうなオリヴェイラの顔が目に浮かぶ。一体この監督は自分の映画に感情移入しているのだろうかとも思うが、人物でも物語でもない全く違う次元の何かにこそすべての情熱が捧げられているのに違いない。『神曲』と同様本人として登場してピアノを弾くマリア・ジョアオ・ピレシュは物語的には本筋とはほとんど関係ない(たしか『神曲』でもそうだった?)が、クレーヴの奥方を一途に慕い続けるアブルニョーサのロックと対置されて映画全体の音風景の振り幅を大きく拡げるのに貢献している。アブルニョーサが事故にあったというニュースに思わず声を上げる奥方=キアラ・マストロヤンニのあの驚き方は非常に作為的で異様だが、所詮はすべて虚構、というオリヴェイラの底知れぬスケールの世界観の中では何が起きても許されてしまう。垣根を挟んでたまたま知らずに座った二人が想ってた同士だったり(それも二度も)、向かいの家に相手が引っ越してきてしまったり、といったわざたらしい「偶然」の連続は、ヒッチコックやブニュエル、オリヴェイラ級の強靱な世界観の持ち主にのみ許される、誰にでもできそうで実は誰にもできない所為なのだ。




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