2001 10月
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柴田敏雄(〜11月24日、日本橋・ツァイト・フォト・サロン)
柴田敏雄といえば、切り崩されコンクリートで固められた日本各地の山河の風景写真シリーズ『日本典型』が思い浮かぶ。たしかに、現代の日本でそういう場所に行けば、ごくありふれた風景として目の前に現れるそうしたコンクリートの景観を、痛々しさとその形態の不可思議さがないまぜになった複雑な感情で見ることになるわけだ。その、山河に覆い被せられた巨大なギプスのように見えもするコンクリートの表面の意味ありげな模様は、アレゴリカルな表情を湛えてただそこに静止してある。一応風景写真と呼ばれるであろう柴田敏雄のそれは、しかし一種の有機体的な建築写真でもあり、場合によっては生物写真とすら呼びうるかもしれないアンビヴァレントな存在として見つめる瞳を宙吊りにする。今回の『カラー・ワークス』シリーズは、まずその名の通りいつになくカラー写真の柴田敏雄作品であることそれ自体によってまず人を驚かすが、それにも増して、ロングショットによる風景写真ではなく、被写体として選ばれた壁面が接写されていることが意表を突く。説明は知らないが、それはおそらく、先のコンクリートのギプスの全体を俯瞰で撮るのをやめ、その中のある一部分の壁の表情に焦点を絞っていった結果だと思われる。あの手のコンクリートの壁は、往々にして雑に「とりあえず固めた」といった風情で誂えられることが多いが、それが故にそこに雑多な要素が偶然に介入し、かえって複雑な表情を見せたりもするのだから、彼がそこに魅せられたとしても不思議ではない。彼は、ずっと俯瞰で山河のコンクリートを撮り続けているうちに、ある日その壁面の持つ表情の豊かさを発見したのではあるまいか。しかもそこに、埋設されたパイプの穴から長い年月かかって少しずつ漏れ出た自然の液体が描き出したカラフルな痕跡を見出したとなればなおさら。もしこれを今まで同様モノクロで撮ったとすると、接写であるが故に何を撮ったのかわかりにくくなり、抽象的形態に近づいてしまう。それを望まなかったためと、もう一つには壁面の肌理や色合いの差異を活かすべく今までとはアプローチを変えてカラーを採用した、というところだろうか。俯瞰の風景写真の時は、表面の肌理などは気にする必要がなかったので、その意味ではカラーにする必要もなかったというところか。
神の道化師、フランチェスコ(1950イタリア、ロベルト・ロッセリーニ監督)
現在、50本を越えるイタリア映画が大挙して京橋のフィルムセンターに押し寄せつつあり、僕はそんなに行きまくっているとはお世辞にも言えないものの、なんだかんだ言ってもイタリア映画の層は厚かった、という事実を改めてひしひしと感じているところだが、とはいえ、最終的にはやはりイタリア映画最高の監督はロッセリーニに尽きるのではないかとも思う。『無防備都市』はネオ・リアリズムを起動させ、『イタリア旅行』はフランスのヌーヴェルヴァーグに決定的な影響を与えた。しかし、未だに日本で見ることのかなわぬロッセリーニの映画はあまりにも多い。10年前にこの『神の道化師、フランチェスコ』や『インディア』『アモーレ』などが続けざまに日本公開されてやっと一歩前進、そして今回『イタリア万歳』が公開されることで二歩前進、という具合に謎のヴェールはゆっくりと一枚一枚剥がされてゆくが、この調子だとその全貌が姿を現すのは一体いつになることやら。ところでロッセリーニ自身の言うところによると『ドイツ零年』は信仰の喪失の映画で『神の道化師、フランチェスコ』は信仰の回復の映画である。それはまた「無垢」の映画でもある。全体はいくつかの章に分かれているが、それぞれの初めにその章の内容が提示されることによって、いわば観客は見る前にその内容を知らされ、あとは知らされた物語が映像でなぞられてゆくのを確認することになる。これはブレッソンを例に挙げるまでもなくサスペンスを排除するには有効なやり方で、観客にとっては物語のレベルで未知のものはなく、初めに提示された内容がその通り成就されてゆくのをあとはただ確認してゆくだけになる。『神の道化師、フランチェスコ』の場合は、過去に実在した聖人の跡をたどる、というこの映画のスタイルがこの手法を正当なものにしている。こうして一つ一つの章のエピソードは縁取られて額にはめられ、イコン化されてゆく。とはいえ、それは何とみずみずしいイコンであることか。セットではなくロケ、演技というより役者の実在、という演出の行き方が、これを数百年前に遡って撮った聖者のドキュメンタリーと見まごうばかりのものにしてしまった。これを奇跡と言わずして何と言おう。ロッセリーニはコスチューム・プレイでもドキュメンタリーが撮れることを証明してしまったのだ。「イタリア映画大回顧」は京橋フィルム・センターにて2月24日まで。『神の道化師、フランチェスコ』の上映はこの後は12月9日と12日の2回。
刑務所の中(2000、花輪和一)
70年代から活動していた花輪和一の歩みは、90年代前半で一旦止まる。趣味のモデルガン集めが高じて実弾銃に手を出し、銃刀法違反で逮捕されてしまったと新聞で知った時は驚いた。それ以後花輪和一の新作を見ることはなくなったが、こういう理由で活動が終わってしまうにはあまりに惜しい作家であり、座して待つこと数年。ついにその時は来た。出所した彼はこの『刑務所の中』をひっさげ再びわれわれの前に登場、というわけで、この作品は文字通り彼自らが体験した刑務所の実録ものである。一体3年に及ぶ「別世界」の体験は彼の表現をどのように変えたのか。この作品に向かう時には、いつもの花輪作品を読む時とは異なる複数の関心の軸が並行して存在しており、その軸はそれぞれ半ば融合し、絡み合っている。一つは過去の花輪作品と今回のこれとの間の落差への関心と、そしてもう一つは今のところご縁のない「塀の中の世界」それ自体への関心と。ここでは当然のことながら花輪和一の眼鏡を通してその世界を覗き見ることになるのだが、その妙に屈折しているかのようで実は逆にこの世の中に稀有なまでに素直なのかもしれぬ彼の視線に一体化してゆく不思議な融合感覚が、過去の花輪作品の体験と共通するものであることにまず思い至る。誰でもわかる過去の花輪作品との違いは、舞台が、当然だがいつもの彼の「幻想の中世」ではなくて現代の日本であること、そしていつになく「作者自身」が主人公として存在していることだろう。基本的には彼は刑務所を題材にイマジネーション(妄想?)を全開にはせず、あくまでリアリズムに徹しようとしているが、それでもところどころ思い出したように怪しげな妄想がひょいと首をもたげてしまう瞬間があるのもまた嬉し。それにつけても感動的なのは、塀の中の個々の些末な実態もさることながら、まるで自分がそこにいることが自然であるかのように受け入れている作者の透明な眼差しのあり方だろう。呉智英氏も書いているように、そこには体制の告発もなければ悔悛の情もない。彼はただただ「無心にそこにいる」のだ。それは「悟りの境地」などというものとも全く違う。彼のいつもの幻想世界の住人たちは、それが中世であれ妖精の世界であれ、自分がなぜそこにいるのかという前提を疑ったことはなかった。彼らは常に無心にそこにいて、いかなる荒唐無稽が起ころうともあっけらかんとした透明さでそれを受け入れてきた。ここに至り、花輪和一自身も「現実世界」という名の幻想界を舞台に生きている妖精の一人であったに違いない、という確信がいや増すのであった。
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