2001 12

今月の2曲
(1)ダヴィッド・デル・プエルト/Invernal(1991)
1964年生まれのプエルトがスペインの作曲界でいかなる位置を占めているのかは知らない。スペイン音楽の現在に関してはほとんど情報がないのは単に僕個人の怠惰さ故なのだろうか。いつまでもパブロやハルフテルだけでもあるまいにとは思うのだが、若い世代に関しては相変わらず雲の中をさまよっているような状態である。2年ほど前に作曲、即興合わせて若手が数人来日したけれど、あれがスペインの新世代の最良の部分だとは思いたくない。若い世代というより中堅世代については、エヴァンジェリスタは早くからモントリオールへ渡ってしまったし、ゲレーロは世を去り、結局最も期待できる人材を失ったまま今日に至っているのだろうか。さてそのゲレーロに師事したのがこのプエルトだが、数曲聴いた感触では、さすがに師を越えるとはとても思えないがとりあえず悪くはない。インテンシティの高さを持続させる力量はゲレーロ譲りかもしれないが、そのあり方は実は根本的に異なるものだろう。プエルトの場合、音響の強度を持続させる主な手法はトレモロやトリルによる同音程の引き延ばしで、そこに60年代以降の前衛音楽ではおなじみの特殊奏法や群的な作法による音響の多層化が施される。ゲレーロはといえば、前衛音楽的な音響の修飾/潤色よりも、楽器の極端な音域や組み合わせから来る音響の存在の強度の方が前面に出ていて、いわばこの二人にはベリオとクセナキスくらいの差がある。それを「強度」といって括ってしまうと同じになってしまうのだが(プエルトはベリオほどヴィルトゥオーソ的な側面は強くはないが)。概して、ヴァレーズの直系には技巧的、潤色的であるよりも音響自体の強度を前面に押し出す傾向があるといえるだろう。ここで思うに微妙な位置にいるのがノーノで、ノーノの音楽自体はある時期以降全く潤色的ではなくむしろ音響提示型なのだが、ダルムシュタットで影響力を持ったせいか彼の使用した特徴的な前衛語法を修飾的に用いてよくいえば緻密に、悪くいえば神経症的に構成するエピゴーネンなども数多生産してしまい、前衛主義のアカデミズム化に結果的に「利用」されてしまったのはノーノにとって不幸なことだったかもしれない。というところで、話がいつの間にかプエルトから逸れてしまったのでこの辺で。
(DEL PUERTO-BLONDEAU-DE PABLO/Musica da camera-PONS STR 33400)
(2)バニータ・マーカス/Adam & Eve(1992)
話はうってかわってアメリカへ飛ぶ。バニータ・マーカスはニューヨーク在住の作曲家で、80年代前半にサウンド・スペース・アークのコンサートで聴いたおぼろげな記憶があるものの、ほとんど日本では演奏されていないといっていいだろう。彼女は師であるフェルドマンとは彼の死に至るまで親密な交流を続けていた。聴いている曲の絶対数が少ないので断定的するのは危険なのを承知で語ることになるのだが、例えば1981年の『2つのピアノとヴァイオリン』を聴くと、その題名もさることながら、その音楽からフェルドマンを想起せずにいることは難しい。しかしはっきり違うのもまた確かなのだ。何が似ているといって、根本的な音楽の佇まいが共通していることが最大のポイントだろう。特殊な奏法など一切なく、薄い音の層でいつ果てるともなくどこまでも淡々と進行してゆく音楽。短いパターンが反復的に現れるが、それもやがて他のパターンの中に埋没してゆく。
しかしその中にも、フェルドマンだったらまずこれはやらないだろう、というような音型が散見されたりもする。これが10年後の『Adam & Eve』になると、基本的な音楽の佇まいは変わらないものの、大きな変化もある。一聴して明らかなように、ここではゆるやかな調性感が全体を覆っているのだ。とはいえ、これを10年後の変化と言っていいものかどうかはわからない。聴いているサンプルが少ない以上、この曲に限りたまたまそうやってみただけのことかもしれないし。クロマティックに下降する音型が様々な楽器間で受け継がれてゆく中、息の長いフレーズが歌われる。下降音型はクロマティックでも背後で上昇するアルペジオは三和音なので、調性的な色彩は濃厚だ。それにしてもフルートやヴィブラフォン、弦の醸し出す空気は夢幻的で美しい。息の長いフレーズが明確に存在しているために、『2つのピアノとヴァイオリン』に比べて横の持続の力が強くなっている。上下する三和音アルペジオに旋律が乗るスタイルというとグラスみたいだが、たえず変化してゆく音の厚み、オーケストレーションに、それを時折攪乱するクロマティックなパターンが音楽の単純化を妨げている。一歩間違うとロマン派になるすれすれのところで、バニータ・マーカスはフェルドマン的時間感覚に調性感を融合することにかろうじて成功しているといえるだろう。
(Bang On A Can vol.3/emergencymusic CD 672)

今月の展覧会
サム・テイラー・ウッド(〜3月17日、銀座・資生堂ギャラリー)
サム・テイラー・ウッドの評価は近年急速に高まっているらしい。僕の場合、昨年運よくパリでも初めてという彼女の個展を見ることができ、その時の強い印象がまだ冷めやらぬうちに今回の東京での個展を見る運びとなった。パリで見た時に、ヒステリーで絶叫する女性を撮ったヴィデオ作品を前にどうも以前に東京のどこかで見た気がして仕方がなく、それがいつのどこだったのか今もって思い出せないのだが、おそらくそれが初めて彼女の作品を見た瞬間だったのは確かなようだ。彼女は一つのスタイルに拘泥することなく関心を持った様々なツールを作品に取り込んでゆくが、基本は写真ということになるのだろう。「独白」と題されたシリーズがパリの時も今回の展覧会でも主軸になっている。このシリーズの基本は作品の独特の構成にある。まず上部に大きく人物写真が一枚あって、その下に横長の全く別の写真がくっつけられている。この二つの写真の間には直接の関連性は見出し難いが、関係あるように思えばそう見えなくもない気がしてくる。それぞれの写真には共通の特徴がある。まず上部のでかい写真だが、ここに写されている人物は、大体思い悩み、あるいは瞑想し、あるいは眠って夢を見、というように自分の内面を見つめる所作に没頭している。それに対し、下の横長の写真はおそらくコンピューターによる合成で、一連の風景がいささか歪んだ遠近感覚で一つながりに捉えられている。この下の写真だけ見るとやなぎみわの作品の舞台となる合成空間と似ているのは否めない、その奇妙な浮遊した現実感覚も含めて。その極端な横長という特性もあって、下の写真は一人の人物を大きく捉えることはなく、様々な風景や人物たちのロング・ショットになっていて、しかもその人物たちはなぜか裸だったり何をしているのか意味不明だったりと、現実離れしている。この二つのイメージをどう結びつけるかは見る者に委ねられているわけだが、ごく一般的に言えば上の人物が見る夢、幻想、または願望などが下の写真のイメージに投影されているということになるのだろう。複数の写真を並置してそこで衝突し合うイメージで見せるやり方は今や珍しくないが、サム・テイラー・ウッドの場合はそれぞれの写真のスタイル、指し示す世界の落差が非常に挑発的な現れ方をしていて興味は尽きない。なお既に指摘されていることではあるが、彼女のこの構成法がルネサンスの祭壇画の構成からインスピレーションを得ていることは間違いあるまい。

今月の1本
追跡(1947アメリカ、ラオール・ウォルシュ監督)
ウォルシュの傑作である『追跡』は、屈折したやりきれなさを内に抱え込んでいるという点でもフィルム・ノワールの条件を備えている。主人公のロバート・ミッチャムは子どもの頃から誰かに追われているという得体の知れない感覚をずっと持って生きてきたが、謎の閃光やブーツの断片的記憶ばかりが脳裏に引っかかっているものの、それが何なのかわからない。のちにそれは幼い頃目の前で父が殺された時のトラウマだったと知るのだが、呪われた運命とトラウマはまたフィルム・ノワールにとってなじみ深い道具立てでもある。避けられぬなりゆきで、好意を抱くテレサ・ライトにも殺したいほど憎まれ、その憎しみの頂点で彼女の心のしこりは消え、あとは襲い来る外敵との闘いへと移行する。外敵と闘うだけならそれは健全なアクション映画で、フィルム・ノワールとしての頂点はその前のこのテレサ・ライトとの関係性の転換点で山場を迎えているのだ。途中の、身に覚えのないまま遠くから狙撃されるミッチャムのシーン、あそこでの顔も定かではない謎の「敵」のロングショットは彼のこの映画での居心地の悪いよるべのない実存感覚を見事に形象化しているといえよう。ウォルシュについての全体像を語るのは時期尚早だが、昔は日本にもそれなりに輸入されていたらしいのに今やとんと映画館で見れない監督になってしまっているのは残念だ。もっともこれはウォルシュに限らず昔のハリウッド映画についてはみな言えることなのだけれど。初期の『バグダットの盗賊』はダグラス・フェアバンクス主演の明朗な冒険活劇だったという記憶があり、これは間違ってもフィルム・ノワールとは言えなかったが、それよりも、のちの『白熱』や『ハイ・シェラ』の屈折ぶりの方にどうしても思い入れがいってしまう。たぶん今でもフォードやホークスやラングに比べて一段格下のように見られているであろうウォルシュだが、こうなったらフィルムセンターにはイタリア映画に続く企画としてラオール・ウォルシュ全作品上映を是非やってもらい、それが真実なのかどうか、あるいは偏見なのかどうかを確認するチャンスを作ってもらいたいところ。




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