2002 2

今月の1枚
クルト・ワイル/知られざるワイル(1981)
「正当」な西洋音楽の歴史観からすると、サティやワイルの評価などというものはほとんどないに等しいものではなかろうか。ドビュッシーやシェーンベルクのように新しい音楽語法を開拓したわけではないし、その上どこかアマチュアめいていてプロっぽいありがたみに欠けているし‥‥。だがしかし、視点を変えれば彼らを高く位置づける切り口はある。サティでいえば、「引用」や「環境音楽」のポストモダン的先駆者、ワイルならジャズの導入とかブレヒトとの作業に代表される音楽の政治性の問題など。それはそれで結構だし、間違っているわけでもない。往々にして、評価というものは案外言葉でまとめやすい明快な「看板」を持っているかどうかで決まるようにも思える。だから、教訓として、流通しやすいなるべく明快でコンパクトな言葉を紡ぎ出して流通させることが賢い商法ということになる。その言葉さえ流通してしまえば、今度は逆に言葉の存在によってその名指される実体が確固としてあるかのように思えてくる。「ニュー・ペインティング」しかり、「自虐史観」しかり。しかし、話を戻して、サティにもワイルにも、前述のような形での評価からは洩れてしまうタイプの、しかし何とも忘れがたい音楽の数々がある。例えばサティのシャンソンなどは、「引用」でも「家具の音楽」でもないただの「音楽」にすぎず、こういうものは「看板」による評価からは洩れざるを得ない。ワイルでいえば、それが丁度この『知られざるワイル』に収められている歌の数々ということになるだろう。この場合「歌」というよりなぜか「ソング」と呼ぶ方が理由はわからないけれどしっくりくるので、そう呼ばせていただきます(「歌曲」だとますます違うし)。この『知られざるワイル』を冷静に語ることは、思い入れが強すぎるせいかなかなか難しいのだが、何とかやってみよう。これはワイル未亡人のロッテ・レーニャが発表せずに持っていた未発表曲を、レーニャに見込まれたテレサ・ストラータスが歌ったもの。ブレヒト・ソングの苦味もブロードウェイ・ミュージカルのための曲の愉悦もいいけれど、この一枚の中にはその両方がある。あるいは政治的なメッセージを込めたソングも他愛ない恋愛ソングも。別の言い方をすれば、かなりドライなものから感傷的なものまで。これらの要素が、ある曲でははっきり一方向を向いて押し出され、またある曲では混ざり合って(なぜそんなことが可能なのか?)表出されている。それぞれの曲の、言語化できる看板には依存せぬ「音楽」としか言いようのないすばらしさ、そして、歌詞と音楽との見事な共闘ぶりにおののくべし。例えば紛れもない傑作の一つ『セーヌ河哀歌』では、長調と短調を頻繁に行き来するピアノの伴奏は、歌詞のうたう河の水に仮託された人生の陰と陽の間を繊細に揺れ動く。歌が河(=ピアノ)に向かって語りかける一方、河は歌(う者)を優しく包み込むという関係性の取り方からして、この曲はもう一つの『小川の子守歌』(シューベルト)とも言えようか。僕の知る限り、ワイル歌いのベストはやはり奥さんのレーニャだが(普段同じ曲の異なる演奏を聴き比べる習慣はないが、ワイルだけはなぜか別なのだ)、ストラータスはさすがレーニャが激賞しただけあってクラシック寄りのアプローチなのにも関わらず例外的にいいのは、ベルカントが不問の前提にならずに必要に応じていつでも地声に「降りて」来れる、というストラータスの姿勢の柔軟さ故だろうか。

今月の展覧会
堂本右美(〜5月11日、銀座・ギャラリー小柳)
堂本右美の作品は完全にいわゆる抽象絵画と呼ばれるであろう形態の範疇にある。平面以外のものも作っているのかどうかは知らないが、たとえ他のものも並行して作っているとしても、今彼女の平面作品のみを俎上に上げるここでの話の方向に影響はない。彼女の平面作品は安定、一貫した作品の享受を常に妨げ、攪乱する方向で描かれているといえるだろう。例えば、大抵の抽象画においては、上下の正しさはなぜかわかる、という思いが昔からあった(左右はもっと難しいが)。ちょっと余談で、上下といえば思い出すのは上下転倒絵画で知られるドイツのバゼリッツだが、バゼリッツの場合に上下転倒のアイデアがはたしてそれ以上のものによって乗り越えられているのかどうかという疑問がかねてよりあり、その答えはまだ出ていない。余談終了。で再び堂本右美だが、彼女の場合はその上下感が非常に掴みにくく、どの向きを上にしても落ち着きが悪い。制作の過程で上下が一定しないように何らかの仕掛けを施しているのかもしれない。あるいは、ある大きな色面がキャンバスを覆っているとして、それと他の周囲のこまごまとした色彩や形態との間に安定したいかなる関係性をも見い出せなかったりすると、これは非常に居心地の悪い気分に陥らざるを得ない。今回の個展では、一見湖などの水辺の風景画のように見えないでもない青を基調とした色面と、その上に黒で塗られた太い抽象的な線的な形態が重ねられている、というスタイルの作品が数点、及びその路線から黒い線のみが省かれた(つまり水辺の風景のようにも見える形態のみ)絵画が何点か展示されている(今回の路線には上下感はある)。この基調としての青い色面+黒い線的な形態、という作品に関しては、これを青い「地」の上に乗った黒い「図」として見ずにいるのは難しいが、この二つがあまりにも無関係なので、一つの統合された全体として一貫した知覚の内に収拾をつけるのは困難だ。結果的に、ここでもまた統一された知覚の攪乱がもたらされている。ここで唐突に余談その2として、以前にも取り上げたことのある石川順恵を思い出す。石川の現在の方向もまた、地の上に乗せられた抽象的な線的形態、という点では堂本とも共通するが、知覚の統合の阻害を取り込みつつも、錯綜するいくつもの層からなる「交響的」なる全体、を目指すという点では堂本とは異なる。堂本作品にはそうした最終的に「交響」する全体への希求は今のところ感じたことはないのだが、これは堂本右美の方がより過激だったということなのだろうか。ということで余談その2終了。ともあれ、どこか早い地点で彼女はとっくに父親のレベルは超え、現在に至っている。新作が気になる数少ない一人。

今月の1本
回路(2000大映、黒沢清監督)
現代日本において、黒沢清ほどフィクションというあり方に純粋に身を捧げてきた映画作家もいるまいと思う。もちろんフィクションを撮る映画監督は他にもいくらでもいるわけだが、彼の、プログラム・ピクチャーの崩壊したこの現代日本では異例ともいえるほどの異様な多作ぶりも驚異的ながら、それぞれの映画の中で一体彼は何をやりたいのか、ということをつらつらと考えていった場合、これも違うあれも違うと一つずつ消去してゆくと最後に残るのはどうやら「作り物」をただ作る、というトートロジカルな姿勢のみが残る。『スウィートホーム』(1988)でハリウッドばりのホラー大作をやろうとしてコけ、これは現代日本映画のゆくべき道ではないと悟ったのかどうか、『地獄の警備員』(1991)では一転してチープさを逆手に取った、やたら照明が暗く50年代ハリウッド映画の記憶を倒錯的に引きずったホラー映画の方向を見出した。そして『地獄の警備員』から11年、この路線の延長での黒沢清の仕事は様々な瞠目すべき成果を生み出してきた。今や彼は、何も起こらなくとも、無人の画面が提示されるだけで既にただならぬ胸騒ぎと不安、予兆を見る者に投げかける映像を撮れる作家にまでなってしまった。『大いなる幻影』なんてそれだけでできているような映画ではなかったか。『カリスマ』の終末論を彼が本気で信じているとは思えないし、『復讐』の2本やそれの延長としての『蛇の道』『蜘蛛の瞳』などにおける怨念の物語を本気で信じているはずもない。『DOOR III』なんて一体何を信じて撮った物語だというのか。それらはただ「そういう企画にしたから」そうなったというだけのことで、あとは予算との兼ね合いなどの現実的な理由から選ばれた工場や廃屋やどっかのビルの屋上やらがいつもながらの舞台となっての映画製作が進められ、それらは豊富な経験の蓄積に裏付けされた確かな職人技術によって、やがてある水準をクリアした商品として完成するというわけだ。重っくるしく暗い画面にチープな音楽、という組み合わせもいつものことで、はたしてこれは彼がフィクション性を強調するために意図的にそうしているのか、それとも予算などの絡みでそうなってしまうのか。『回路』は幽霊を題材としたホラーだが、それがインターネットのモニターの中に現れるという設定になっている。モニターの中に映る部屋の中をさまよう幽霊という存在は、シンプルに目の前に現れる幽霊とは違って、その部屋でその幽霊に誰かがカメラを向けてその映像を撮影したはずだ、という意識をこちらに呼び起こし、それが何ともコミカルなシチュエイションに思えてきてしまうのは僕の見方がおかしいのだろうか。本当は「目の前に直接現れる幽霊」の映像だって、誰かのカメラが当然の前提なのだが、それは普段の映画体験の中では一応ないことになっているのであった。同じく幽霊ものの『降霊』ではいつになく夫婦の愛というテーマが強調されているが、これはこの作品がもともとTV用に撮られたからにすぎず、彼が愛などといった曖昧な対象を信じて映画を撮る日が来ることはこれからもありそうにない。

今月のマンガ
黄色い本(高野文子、2002)
寡作とは言いながら、これまでに出された作品集のすべてが傑作というのは並大抵の才能ではない、それが高野文子。絵がうまいとか言葉のセンスがいいとかストーリーテリングが優れているとか構図がどうとか、そうした個別の要素に分解しての評価からは高野文子の凄さは決して掴み得ず、網の目から虚しく抜け落ちていってしまうばかりだ。すべての要素が完璧で緊密に絡み合った上で総体的に滲み出てくる高度な達成ぶりを前にして、人は一体いかなる表現でそれを讃えればよいのか。更に言えば、「完璧な作品」というものがしばしば不可避的に身にまとってしまう息苦しさ、密閉感覚すらも彼女の作品は超越している。この上なく自在で、一見気の向くままに即興で描いたかのようにも見えてしまうのに、よく読むと実は緻密で入念にできていることに気づく、というあり方。彼女の寡作は例えば、マンガで何としても成功しなければ、というような焦りとは無縁であることの証であり(書こうとしても書けないので寡作になるというタイプもあるが、高野文子の才能がそうした事態を招来するとは思えない)、こうした気負いのなさは作品中の人物にそのまま反映されている。デビュー作にして衝撃の一冊『絶対安全剃刀』(1982)ではまだ様々な絵柄が(意図的にでもあろうが)混在していて、そこには萩尾望都の影響が明瞭に見て取れるものもあったけれど、萩尾的な絵柄はやがて影を潜めてゆき、次の『おともだち』所収の二篇に見られるような、レトロな日本路線とバター臭いアメリカ路線(さべあのま的ともいう)に二分されてゆく。本人は気に入ってないらしい『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』(1987)は後者の路線一色で徹底したものだが、作者もどこかで言っていたように、昔のアメリカ映画の都会的でしゃれた冒険譚のイメージに沿っていて、もし映画に置き換えるならばラッキー嬢ちゃんはヒッチコック映画におけるグレイス・ケリーを措いては考えられまい。このレベルなのに気に入らないというのは志が高いというか何というか。さて、実に7年ぶりの新作であるこの『黄色い本』は、『棒がいっぽん』と同様この二つの路線のどちらでもない現代日本の日常に取材したものだが、のほほんと流れる時間感覚に反しての切れ味の鋭さはいつもの通り。




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