> 随分時間が経ってしまいましたけど.....
おっと。話は終わってなかったんですね(笑)。
> そうすると「楽音」の単位が曖昧であるということの認識が、曲全体を構成する
> やり方などにも影響を与えているのでしょうか?あるいはそういう可能性につい
> てどの程度意識されていますか?
「楽音」の集合として形作られる「フレーズ」がやはり同じように曖昧なものであれば、
さらに超レヴェルの「構成」にも曖昧な要素が作られ得ます。
でもその位になると耳の認知力と言うより構造のは握力という次元に問題が移ってゆくので、
話は少し異なるでしょう。
でも構成・構造の曖昧さにはやはり興味はありますよ。今後の課題です。
> うーん、「Forma」の場合何故「観念的か」というと、やはり「楽音」として「定
> 義」されてもこっちとしては「楽音」には聞こえない、というか、分散和音そのも
> のが固有に持つキャラクターがあまりにも強烈な感じがするんですよね。
それはわかりますよ。でも人が曲を聴くときの対象が、つねにそのようなキャラクター
であるわけじゃない。
言い方は妙だけど、聞くときの態度として「そのような楽音の考え方を前提としている」
ということを意識して欲しい、ということです。
> 「北回帰線」の場合、確かに何らかの「観念的」な「定義」が成されていても、「楽
> 音」の種類が非常に多いですから、作品全体としては「定義された楽音」以上の次元
> を獲得しているように感じたのでしょう。
ふと思ったんだけど、私の割と観念的な作品というのは、もしかしたら音素材を限定して
いる場合が多いかもしれませんね。特に昔の作品。
音素材をあまり制限しないことによって新たなる次元が見えてくるのなら、今後喜んで
いろいろな音を使ってみることにしましょう。
#そういう表面的な問題ではないような気もするけど…… -_-;)