Re: 三行書簡12(作品と観念)

投稿者:山本裕之
投稿日:97年7月07日 00時07分52秒
リモートホスト情報:ppp004.tokyo.campusnet.or.jp
田中吉史氏の投稿「 Re: 三行書簡12(作品と観念)」に対するコメントです

(内容)

> > 音だけで人に観念を感じさせることが出来たら、それはとても凄いこと
> > ですよ ね。
> それはまあ確かにそうなんだけど。でも山本さんはそれを目指しますか?
> つまり音だけで人に何かの観念を感じさせると言うことを。
あまり興味はありません。

> 例えば音色、音価など殆どのパラメータが同じなのに音高だけ違うより、
> 多くのパラメータが異なっている音が連続した方が「分節」はしやすくなります。
理屈ではそうですよね。
でもこのパラメーターというのがそもそも怪しくて、
例えば音高が違えば自ずと音色も異なってくるし、そのようなものを突き詰めると
パラメーター分けの根拠も曖昧になってくる……というのは観念的すぎる?
#論点はずれてしまうが。

> まあ、僕の音楽の聴き方はかなり「個人的」というか「わがまま」なものでは
> ありますね(^^)。
いやあ、それを言ったら……(笑)。

> 個々の音、と言うよりはそれらが連 鎖して
> 形成されるレベル(あえて言えば「構造」)の方にあると自分では考えています。
それはルトスワフスキの「チェイン」のようなものとは異なりますよね?
でも単位の違いはあるけど似ているところがあるかも。

> もちろん、「構造」の形成に「個々の音」が全く関与しないとは考えられなくて、
> 「構造」について考えることは同時に「個々の音」を考えることを要求します。
> 勿論「個々の音」があくまで「構造」に寄与させるためだけにあるとも考えて
> いませんが。
「個々の音」と 「構造」は、たとえば個々の音が近隣と関係していくにつれて
構造を形成していく、という連続的な関係を持っている、と私は考えています。
だから「ミクロな構造」をみればもしかしたらそれは 「個々の音が作り出す
まとまった音(フレーズ?)」とほとんど変わらない、ということもありえる。
もちろん従来の 「構造」という言葉の意味を離脱するわけですけど。

> しかし、他の作曲家の曲について考えることは、突き詰めると自分の問題にも
> なってきますね(^^;)。
ということは、このコメントチェーンはパーソナルなんですね(笑)。



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