>> 「個々の音」と 「構造」は、たとえば個々の音が近隣と関係していくにつれて
>> 構造を形成していく、という連続的な関係を持っている、と私は考えています。
>> だから「ミクロな構造」をみればもしかしたらそれは 「個々の音が作り出す
>> まとまった音(フレーズ?)」とほとんど変わらない、ということもありえる。
>> もちろん従来の 「構造」という言葉の意味を離脱するわけですけど。
>これを読んで連想するのは、図形のどの部分をとってもその図形全体が埋め込まれて
>いる、という自己相似的な図形です。こういう図形の場合は確かに全体を見ても細部
>を見ても「同じ形」を見いだすことが出来るのですが、音楽や音響的な図形の場合、
>違うレベルの視点から見てどのくらい「同じ形がある」と見なせるのか、分からな
>い。
私の言う「ミクロ=マクロ構造」は別に自己相似ではないです。
確かに最近はフラクタル的な発想を作品に持ち込む人が多いし、興味を持たせるのに
充分な理論だろうけど、今のところ私は作品への適用に興味はない。
>今この時点で僕が考えるに、確かに「個々の音」と「それらが合わさってできるそれ
>より大きなレベル」との順序の絶対性は曖昧ですが(うまく言えないけど、それよりも
>大きいレベルも、小さいレベルもあり得る)、やはり順序性そのものは存在するのでは
>ないかと。つまり、「上のレベル」と「下のレベル」はやっぱり質的に違っていて、
>別のものとして扱わざるを得ないところがあるような感じがします。
>だんだん観念的になってきましたが。
いや、それは観念的でもなくて(笑)、実際レベルに差があれば違う観点でとらえる
必要がある、というのは賛成です。ただ私は同時に「いずれにせよ同じ音(音群)」
という観念も捨てきれないわけで。
>個人的には、Luis de PabloやJohn Leaの作品に見られる「構造」に興味が
>あります。
John Leaなんかはだんだんテンポアップしていったら、それまで見えていた
子細な部分が大きなフレーズに巻き込まれてゆく、そしてそのフレーズもやがて……
なんて曲がありますね。
>> ということは、このコメントチェーンはパーソナルなんですね(笑)。
>というか、パーソナルな視点からコメントをしている、ということです。
>究極的には(少なくとも現状では)作曲というのはごく個人的な活動だし、
一般的な話、作曲そのものが個人的なのか、それを含む音楽活動(聴衆に作品を披露する、
など)も個人的な活動なのか、といえば…………いや、やめておこう(笑)。