Re: 三行書簡12(作品と観念)

投稿者:田中吉史
投稿日:97年7月04日 15時15分35秒
リモートホスト情報:mikan.bcomp.metro-u.ac.jp
山本裕之氏の投稿「 Re: 三行書簡12(作品と観念)」に対するコメントです

(内容)

> 勝手に改題しました。
どうぞ。しかし掲示板で連鎖が深くなると見づらくなるなあ。

> 音だけで人に観念を感じさせることが出来たら、それはとても凄いことですよね。
それはまあ確かにそうなんだけど。でも山本さんはそれを目指しますか?
つまり音だけで人に何かの観念を感じさせると言うことを。

> そうなんですか。
> なぜ「多様な素材の投入」が「構造」のレヴェルに関心を引きつけるのかが分かりません。
少なくとも個々の音の分節がより明瞭になることは確かです。
例えば音色、音価など殆どのパラメータが同じなのに音高だけ違うより、
多くのパラメータが異なっている音が連続した方が「分節」はしやすくなります。
勿論近藤譲の言うような意味での「関係付け」がしやすくなるかどうかは別の問題ですが。

> > この場合の「新しい次元」というのは、自分が今まであまり気が付かなかっ
> > た山本作品の「構造」的な側面に興味が引きつけられた、ということを表してい
> > るわけです。
> 田中氏が「うつろうようなもの」とする「連想構造」とはかなり違いますけどね。
> (と、話を振っておこう)
まあ、僕の音楽の聴き方はかなり「個人的」というか「わがまま」なものではありますね(^^)。
個人的な興味、というか自分の作曲上での興味は個々の音、と言うよりはそれらが連鎖して
形成されるレベル(あえて言えば「構造」)の方にあると自分では考えています。もちろん、
「構造」の形成に「個々の音」が全く関与しないとは考えられなくて、「構造」について
考えることは同時に「個々の音」を考えることを要求します。勿論「個々の音」があくまで
「構造」に寄与させるためだけにあるとも考えていませんが。
しかし、他の作曲家の曲について考えることは、突き詰めると自分の問題にもなってきます
ね(^^;)。


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