勝手に改題しました。
> 「要素」と「構造」とを全く独立なものと考える訳にはいかないわけで、
> その意味で要素の曖昧さは構造の曖昧さを生み出すための一つの方略となり
> 得ます。
そう思います。
> > ふと思ったんだけど、私の割と観念的な作品というのは、もしかしたら音素
> > 材を限定している場合が多いかもしれませんね。特に昔の作品。
> 誤解しないでほしいのは、「観念的」というのは素材を限定することそのものに
> あるわけではありません。
私の場合、観念が音楽作品を作り出す源の一つとなっていたと思います。
今もわりとそうだけど。で、その方策として素材限定がよく行われていた、と。
だから素材限定そのものが観念的ではないというのは分かります。
> 素材が限定されていても「我が終わりは汝の始まり」はあまり観念的だとは
> 思わなかった。むしろ逆に「東京コンチェルト」のノートで「協和音と不協
> 和音の対比」という言葉が出てきたとき、この音楽に関してはそういう区別
> は非常に観念的だという感じがしなかったわけでもない。
「我が終わり」に関しては、プログラムノートを含めてほとんど言葉を語って
いません。だから自由な態勢で聴くことが出来たのでしょう。
音だけで人に観念を感じさせることが出来たら、それはとても凄いことですよね。
> 多様な素材が投入されたことは、
> 聴き手の関心を個々の「音」レベルではなく、それらが集合してできる「構造」
> のようなレベルに引きつける結果になったのではないかということです。
そうなんですか。
なぜ「多様な素材の投入」が「構造」のレヴェルに関心を引きつけるのかが分かりません。
ただ個々の音が連続的に構造に関わってくるのは確かでしょうね。
> この場合の「新しい次元」というのは、自分が今まであまり気が付かなかっ
> た山本作品の「構造」的な側面に興味が引きつけられた、ということを表してい
> るわけです。
田中氏が「うつろうようなもの」とする「連想構造」とはかなり違いますけどね。
(と、話を振っておこう)