Re: 三行書簡12(一つの音)

投稿者:田中吉史
投稿日:97年6月30日 14時53分37秒
リモートホスト情報:mikan.bcomp.metro-u.ac.jp
山本裕之氏の投稿「 Re: 三行書簡12(一つの音)」に対するコメントです

(内容)

> おっと。話は終わってなかったんですね(笑)。
くどくてすいません(^^;)

> でも構成・構造の曖昧さにはやはり興味はありますよ。今後の課題です。
「要素」と「構造」とを全く独立なものと考える訳にはいかないわけで、
その意味で要素の曖昧さは構造の曖昧さを生み出すための一つの方略となり
得ます。

> 言い方は妙だけど、聞くときの態度として「そのような楽音の考え方を前提としている」
> ということを意識して欲しい、ということです。
そりゃわかります。今度聴くときはそういう風に努力して聴こう(^^)。

> ふと思ったんだけど、私の割と観念的な作品というのは、もしかしたら音素材を限定して
> いる場合が多いかもしれませんね。特に昔の作品。
誤解しないでほしいのは、「観念的」というのは素材を限定することそのものにあるわけでは
ありません。素材が限定されていても「我が終わりは汝の始まり」はあまり観念的だとは思わ
なかった。むしろ逆に「東京コンチェルト」のノートで「協和音と不協和音の対比」という
言葉が出てきたとき、この音楽に関してはそういう区別は非常に観念的だという感じがしなか
ったわけでもない。何を「観念的」といい何をそうでないというかは非常に微妙な問題です。
自分でも定義するのは難しいです(^^;)。ただ、強いて言えば、こうした文脈で「観念的」とい
うのは、セリー音楽で無茶苦茶複雑な変形を加えたものが全部同じものとして聞こえるはずだ、
というのと似たようなものかもしれない。セリー音楽で僕が聴くものはセリーそのものではなく、
それとは違うもの(個々の音響の面白さ、部分間のつながり、アーティキュレーション、全体の
構成感、などなど)であるし、曲の善し悪しもセリーが聞こえたかどうかではなく、それ以外の
諸々の要素の総体的な評価であるわけです。

> 音素材をあまり制限しないことによって新たなる次元が見えてくるのなら、今後喜んで
> いろいろな音を使ってみることにしましょう。
> #そういう表面的な問題ではないような気もするけど…… -_-;)

ここでも誤解しないでほしいのは「新たなる次元」というのが、今後の方向を
決めるほど大きなものを指しているわけではないと言うことです。一月近くた
ってだいぶ記憶が薄れてきてしまったけど、多様な素材が投入されたことは、
聴き手の関心を個々の「音」レベルではなく、それらが集合してできる「構造」
のようなレベルに引きつける結果になったのではないかということです。勿論、
個々の「音」は今までの山本作品同様、非常に吟味されていて独特だと思います
が、この場合の「新しい次元」というのは、自分が今まであまり気が付かなかっ
た山本作品の「構造」的な側面に興味が引きつけられた、ということを表してい
るわけです。「回帰」という考え方はなかなか面白くて、もう一度聴いてみたい
と思います。



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