TANAKA, Yoshifumi 田中吉史 (works)

タイトルtitleyearmin.instruments備考解説  
弦楽四重奏−1Stringquartet minus one1988/9215-20vn.,va.,vc.第5回日本現代音楽協会新人賞入選
Tre FagottiTre Fagotti1989103Fg.第6回日本現代音楽協会新人賞入選
BubbleBubble19918vn.,va.,vc.
TROS IITROS II19925Fl.秋吉台作曲賞入選このフルートソロのための作品では、一つのセリーが様々な奏法によって分断され、それによってできた断片が急速に交替する。そのため、ソロのための作品でありながら、複数のプロセスが同時に並行して進行する状態が作られる。また、それらの断片はある規則によって並べ替えられるが、題名はその並べ替えの方法(SORTを逆につづったもの)に由来している。
1992年3月に秋吉台でCarin Levineによって初演された後、1995年6月に東京で木ノ脇道元によって改訂初演された。
TROS IIITROS III19925P.
TROS IVTROS IV19937Ten.-Sax.
eco lontanissima IIeco lontanissima II1994/967P.
Attributes IAttributes I19946.5Sop.-Sax.秋吉台作曲賞奨励賞
eco lontanissima IIIeco lontanissima III1994/954.5Alto-Sax.CD: ALCD 9046 (ALM RECORDS, Tokyo),出版: マザーアース 齋藤貴志氏からアンコール用の小品をと頼まれて書き始めた。最初の版は演奏されなかったが、結果的に推敲を重ねることが出来、ついにはアンコールにはあまりふさわしくない曲になった。それがeco lontanissima IIIである。
この作品では、つまづきながら進むパルス、ピッチや音色の微細な変化、不規則なパターンの繰り返し、これらすべてによって微妙な濃淡が作り出される。
Attributes IIAttributes II19966Alto-Sax.,P. この作品では、二つの楽器は別個のものとしてではなく、組み合わされてできた一つの楽器として扱われる。こうしてできた新たな「楽器」は一つの旋律を紡ぎ出す。しかし一つの糸が徐々にほどけるように、旋律は様々な要素に分離してゆく。
齋藤貴志氏の委嘱で1995年から96年にかけて作曲された。
fuggitivifuggitivi1996/978String-Quartet秋吉台国際作曲賞
eco lontanissima Veco lontanissima V1996/200012zephyrosCD: ALCD-55 (ALM Records, Tokyo)
linea-respirolinea-respiro19971417instruments
SniffSniff199782P.この作品は、向井山朋子、大井浩明両氏の委嘱で書かれ、1997年9月に彼らによってオランダ・ミデルブルグで初演された。日本初演は2006年8月、「秋吉台の夏」において中山敬子、石田美智恵両氏によって行われた。
微かな痕跡をたどってゆき、時にその痕跡を見失いながら進んで行く犬の歩み。あるいは、何かを思い出そうとしても、漠然とした何かは出てくるのだが、それがなかなか明確な形にならない、といった経験。そんな感覚を実現しようとしていたのが、この作品だった。
この曲ではマデルナの「宗教的庭園」から取り出された素材が用いられている。言ってみれば、何かの痕跡を辿るうちに、マデルナに行き着いた、あるいはようやく形が見えてきたらそれがマデルナだった、ということかもしれない。
ところで、普通はこのような題名は付けないらしく、オランダ在住のある人はコカインの吸入のことだと思っていたそうだ。またドイツに住んでいる友達は当地で売っている同じ名前のポケットティッシュをくれた。それは今でも使わずにとってある。
Outer musicOuter music1998/200612wind-Orch. 吹奏楽のために書かれた多くの作品についていつも不満に思うことがある。様々な異なる音色を持つ楽器がいくつもユニゾンで重ねられているため、個々の楽器の特色が失われ、均質化してしまっている。また、非常に多くの楽器が用いられているにも関わらず、声部がせいぜい3つぐらいしか無い。さらに、吹奏楽コンクールなどではいかに一糸乱れず演奏するか、という点に心血が注がれ、その結果、多くの吹奏楽作品はアンサンブルと言うよりも、あたかもマスゲームのようですらある。
 この作品は、そうした標準的な吹奏楽作品とは相当異なった方向を向いている。この作品には華麗な旋律や雄弁なリズム、勇壮なファンファーレは無い。例えばトランペットの半分はほとんど常に様々な弱音器をつけている。また(特に前半では)、多くの楽器がソロとして扱われる。それは風にそよぐ木の姿をアニメーションで再現するのに、ひとつひとつの枝や葉の動きをある程度バラバラに描かれなければ自然な動きが再現できないのと似ている。
秋吉台国際20世紀音楽セミナー&フェスティバルの委嘱で作曲、1998年8月に、上田憲明指揮岩国高等学校吹奏楽部により初演された。
eco lontanissima VIeco lontanissima VI19984Guit.出版: マザーアースこの作品はトレモロについての短い考察である。また、二つの弦が四分の一音ずらして調弦されていて、複数の弦でほとんど同じだがわずかに高さの異なる音を演奏することで、様々な音色の変化が作り出される。そのため、聴いてすぐにはわからないかも知れないが、非常に高度な演奏技術が要求される。
1998年に佐藤紀雄のために書き、その年にメルボルンで初演され、その二年後の2000年にローマでElena Casoliによって改訂版が初演された。さらに二年後、Christoph Jaegginによって日本初演が行われた。
ΦPhi1998/9912Fl.,Cl.,Tb.,Perc.,Vla.,CbISCM World Music Days 横浜大会入選(2001)題名は、作品の内容とあまり深い関係はないのだが、実験室で人工的に作り出される、Φ効果というある視知覚上の特殊な現象に由来している。それは純粋運動などとも呼ばれ、何が動いたのかわからないけれども、何かがある場所から別の場所へ素速く動いたという印象だけが感じられる現象のことである。この作品で使われる様々な素材は、冒頭部分で非常に素速く次々と提示されるので、最初はあまり明確な印象を持たないが、その後徐々に形が明確になって行く。この作品はボンのベートーヴェンハウス室内楽ホールの委嘱により同ホール10周年のために作曲され、1999年6月にJurjen Hempel指揮のEnsemble MusikFabrikによって初演された。
Notturno correndoNotturno correndo1999 10Cl.,Vc.,P.
eco lontanissima IVbeco lontanissima IVb1995/9911Ten-Sax.
DuoDuo199913Sop-Sax.,Vn.一部消失、出版: マザーアース
study/limenstudy/limen19993tapeCD: ARS143-004 (Ars Publica)
Gelsomina - DistanzaGelsomina - Distanza20005trp, pfNino Rota "La Strada" (di Federico Fellini) の編曲作品/CD: ALCD-3057 (ALM Records, Tokyo)/出版: Ars Publicaフェデリコ・フェリーニ監督による1954年の映画「道」の音楽(ニーノ・ロータ)に基づいている。この映画のメイン・テーマとなる旋律は、劇中、主人公の女性ジェルソミーナがトランペットで吹くもので、後にこの旋律は歌詞がつけられてシャンソンとして歌われたりして、よく知られている。Gersomina-Distanzaでは、この最も有名な旋律の他、映画のサウンド・トラックで用いられた2、3の旋律も用いている。なお、Distanzaとは「距離」の意味だが、舞台裏に配置されたトランペットと舞台上のピアノとの距離、あるいは、映画の主役であるジェルソミーナと大道芸人ザンパノとの距離を表していると言えるかもしれない。(2001-3-15)
Lessico famigliareLessico famigliare20005vla, pf, tape人間の声というと、何よりも私がひかれるのは、歌声や朗読、あるいは役者の語る台詞などではなく、我々が普段特に意識することなく発している話し声である。日常生活の中で我々が何気なく行う自由会話は、言いよどみや繰り返し、気ままな速度の変化や自然な役割交代に満たされており、滑らかだがしばしば唐突な話題の変化とともに、私を魅了してやまない。
 この作品の素材は、うちとけた場面で親しい友人たちの交わす自由な会話である。ここでの私の関心は、そうした絶え間ないおしゃべりの流れの中のある瞬間を、殆ど手を加えることなく切り取ってくることにあった。
 題名は、ナタリア・ギンズブルグの同名の小説にもとづいている。この小説は、ある家族の間で交わされる会話を軸としているが、自由な会話という点以外に、私の作品とこの小説の間に共通点はない。
Danzina per Yoriaki Matsudaira (松平頼暁のための小舞曲)Danzina per Yoriaki Matsudaira20011vla
GestesGestes20016female-vo, cl, cb原曲は15世紀の作曲家Guillaume DufayのVergine Bellaである。中世からルネッサンス期の音楽を聴いていると、リズムや曲想が非常に気ままに移ろうように感じることがしばしばある。この作品における私の関心は、こうした音楽の特徴を取り出し、強調することにあった。ただし、私が注目したのは原曲の構造ではなく、もっと漠然とした音楽のジェスチャーとでもいうようなもの(題名はこれに由来する)のほうであり、この作品では、音楽は歌声、鼻歌、おしゃべりや言いよどみ、原曲とその断片、まがいものなどの間を絶えず行き来する。
つむぎ歌Tsumugi-Uta200282 二十絃出版: マザーアースいわゆるクラシック音楽の延長上にある多くの音楽では、演奏家は音楽そのものの中には存在しない等間隔な拍なり拍子なりを想定して、それにあわせて音楽を作ってゆく。合奏する時も、基本的にはお互いの関係は外側に想定された拍や拍子を介して成り立っているに過ぎない。リズムが複雑になればなるほど、互いの存在はますます間接的なものになってゆく。こうした音楽のとらえ方、感じ方は邦楽の演奏家のそれとは本質的に異なっていると思う。
「つむぎ歌」を書く時にまず思ったのは、この「音楽における時間をどうとらえるのか」という問題だった。そこでこの曲を書くにあたっては、拍を複雑に分割したりして自分の音響イメージをできるだけ正確に記譜する、というような、ある種の現代音楽においては典型的なやりかたは取らなかった。むしろ、二人の演奏者がどのように互いの音を聴き、どうやって一つの音楽的な流れをつむぎだしてゆくのか、ということが重要なヒントになった。そのために、この曲では大まかなテンポの指定はあるものの、私の作品には珍しく、多くの部分でプロポーショナル・ノーテーションが導入されている。また、演奏にあたっては、二人の演奏家は互いの出す音のタイミングに常に注意をはらい続けなければならないような仕掛けになっている。言ってみれば二人の演奏家は外にある時間の流れを介してではなく、互いの音をじかに聴きながら、ひとつの糸をつむいでゆく。
LuftspielLuftspiel20029accord1995年に秋吉台でシュテファンのアコーディオンを聴いた。それ以来この楽器のために書きたいと思い続けて、何度もシュテファンに下書きを見てもらったりしながら、ようやく2002年に書き上がった。それがこのLuftspielである。
アコーディオンのことを日本語で手風琴というが、その名の通り空気を送って音を出す楽器だ。風によって音が出る、という点では、窓を鳴らすすきま風や、電線をうならせる嵐と同じである。このことが、この曲を書くときに最初に考えたことだった。
初演は2006年6月、東京でシュテファン・フッソンクよって行われ、彼に献呈されている。
ウィンド・オーケストラのための協奏曲Concerto for wind orchestra2002/0311wind orch一般に、吹奏楽のために書かれた作品は、様々な楽器がごく少ない声部に割り振られるため、豊かな音量が得られる反面、音楽的には単純である事がおおい。それはマスゲームのようであり、誰か一人の演奏家が欠けても何の影響も無い。この作品では、演奏者たちはソロや少人数のグループを単位として行動する。それによって、吹奏楽によくあるマッシヴな音響よりも、精密で繊細な響きを作り出すことが意図されている。
オーストリア・チロルの現代音楽祭Klangspuren2002の委嘱で作曲され、Franz Schieferer指揮warovski Musik Wattensによって初演された。その後、編成面を中心に改訂を行い、第2版が作成された。第2版の初演は、2003年9月ACLアジア音楽祭で、Douglas Bostock指揮東京佼成ウィンドオーケストラによる。
Schwaz EtudeSchwaz Etude2002-0314tapeCD: TEMPUS-001 (TEMPUS NOVUM, Tokyo)
bogenspiel Ibogenspiel20038vn.出版: マザーアース一般に、作曲家は結果として得られる響きを想定しながら作曲を進めてゆく。それに対して、"bogenspiel I"を書く際には、結果として鳴り響く音そのものよりも、その音がどのような身体的な動作によって得られるのか、ということが常に念頭に置かれていた。
伝統的な西洋音楽では、滑らかで安定した音が要求されるが、理想的な音を得るためには、弓の圧力、速度、弦上の弓の位置、等の要素の微妙なバランスが必要で、そのためにかなり不自然な身体動作を習得しなければならない。言ってみれば、ただ「美しい」音だけが求められ、演奏家の体はそのためだけに調教され、酷使され、見えないところに追いやられる。
この作品では、理想的とされる要素間のバランスをあえて崩して、むき出しの荒々しい響きが作り出される。これによって、音の背後にある演奏家の体の動きこそが本質的な意味を持つような音楽を目指した。
辺見康孝氏のために作曲、2003年12月に東京で彼の演奏により初演された。
air varie’air varie’20048p.出版: マザーアースair varie’は古くからの友人であるClaviareaの二人のために書かれ、2004年5月に葉山で中村和枝によって初演された。
この作品を書くにあたってまず最初に考えたのは、これが初演される会場、つまり旧東伏見宮別邸の広間のことだった。通常のコンサートホールのように、外の世界から完全に切り離されているのではなく、戸外からの光を浴びながら、また窓の向こうの景色を眺めながら、あるいは時折遠くから聞こえる外の物音と共に音楽を聴く。そのような空間には、たとえば楽譜に書かれた音符以外のすべてに耳を塞ぎ、ただひたすら作曲家の思念だけを聴き取ることを聴衆に強いるような音楽は似合わない。
この曲を書きながら常に心がけていたのは、ピアノを、一つのメッセージが発せられる中心としてではなく、様々な響きや旋律が通りかかり、そしてまた立ち去ってゆくような場所として考える、ということだった。
Vento’Vento’200012picc(b-fl), pf
Uccello magico - parafrasi di "Casanova" di Nino RotaUccello magico - parafrasi di "Casanova" di Nino Rota20045fl,pf以前、ニーノ・ロータがフェリーニの映画のために書いた旋律をトランペットとピアノのために編曲したことがあった。それを聴いたRoberto Fabbricianiが、今度はフルートのために、ロータの旋律を編曲してみないかと勧めてくれた。その勧めに応じて書いたのがこのUccello magicoである。
Uccello magico(魔法の鳥)とは、フェリーニ監督の映画「カサノヴァ」の中で、主人公が常に持ち歩いている時計仕掛けの鳥のこと。映画の中でカサノヴァが年を取ってゆくと、魔法の鳥もだんだん動きが悪くなってゆく。この壊れかけの機械がもつ不規則で予測不可能な動きが、この作品を作る上でのヒントになった。
初演は、2004年11月にRoberto Fabbriciani(fl)とAndrea Bergamelli(pf)によってBergamoで行われた。
Come ricordarti la melodia?Come ricordarti la melodia? (How do you remember a melody?)20057'002vn,2va,2vc,2cb
An Interview with L.B. interpreted by viola and pianoAn Interview with L.B. interpreted by viola and piano20069va,pf委嘱:武生国際音楽祭ある日本人研究者によるルチアーノ・ベリオへのインタビュー。テーマは「ウンベルト・エーコの音楽性」。この問いに対して、作曲家は時に言いよどみ、言葉を探し、話を逸らたりしながら、早口で絶え間なくしゃべりつづける。
柔軟で絶え間ない音程やリズムの変化、言葉を探すために不意に訪れる休止、気ままな話題の変化など、人の話し声は、私を魅了して止まないお気に入りの音響の一つである。この作品で、私はベリオのおしゃべりを可能な限り忠実に器楽化し、その特徴を音楽の中にとけ込ませてゆくことを意図した。
武生国際音楽祭の委嘱により作曲、2006年9月にChi-Yuan Chen(vla)と金井亜沙美(pf)によって初演された。
うろおぼえの旋律とコラールuncertain melody and choral in fading memory200743melodica委嘱:野村誠「あれってあれだっけ?」「あれって?」「あれだよ、あれ」「ああ、あれね」「そう、あれあれ」「でも、あれってあれだっけ?」「あれってあれだっけ?」「あれって?」「あれだよ、あれ」「ああ、あれね」「そう、あれあれ」「でも、あれってあれだっけ?」
もう少しで思い出せそうなところで消えてしまうおぼろげな記憶。確かにおぼえているはずなのにどうしてもぼんやりとしか思い出せない何か。なんとか思い起こそうとするうちに全然違うものがでてきてしまうもどかしさ。こうした感覚を音楽におきかえることは可能だろうか?

野村誠氏の委嘱で作曲。2007年6月に京都で初演された。
思い出せないタンゴ(たぶんストラヴィンスキーの)Forgotten Tango (of Stravinsky, perhaps)2007-20086'00"accord,pf
air (de Cherubino)air (de Cherubino)20052pf「air varie」を続けて演奏する事が可能。2004年に「air varie」というピアノ曲を書いた。その曲の着想時に書き留めてあったメモを読みかえすと、いくつかのアイディアが実現されないまま残っていた。そこで、そのアイディアのひとつを改めて実現してみようと考えた。
ある有名なオペラのアリアを様々な形でぼやけさせる。その状態は原曲のフレーズやテクスチャーの変化に対応して移り変わる。原曲が何だったかはまず聴きとれないだろうが、それでも原曲の特徴はいくらか残っている。
この曲は「air varie」といくつかの素材を共有しており、この曲のあとに「air varie」をつづけて演奏することができる。
2005年5月、篠田昌伸氏によって初演された。
InstabileInstabile20056cl「クラリネットこわしちゃった」という有名な歌がある。それに触発されたわけではないのだけれど、「こわれた楽器がどのように振る舞うか」を想像することが、この曲を書く最初のきっかけだった。こわれてコントロールがきかなくなった楽器は、安定した音が出なくなったり、予想だにしない音が出たりすることがある。この曲は、こわれた楽器を描写することが目的ではないし、また実際にこわれた楽器を使って演奏するわけでもない。ただ、そういうこわれた楽器のもつ独特な不安定さのようなものが、こわれていない楽器のための音楽を書く際の手がかりとなったのだった。
なお、この曲の最初のタイトルは「Guasto」(故障中)というものだったが、初演したGuido Arbonelliから「あんまりいいタイトルじゃないな」という助言を受け、「Instabile」(不安定な)に変更したのだった。
Guido Arbonelliによって2005年の11月に東京で初演された。
No.9 - QuintettoNo.9 - Quintetto2005/071012vo(3S,3A,3T,3B)based on Lorenzo da Ponte & W.A.Mozart "Cosi fan tutte""No.9 - Quintetto"は、モーツァルトとダ・ポンテによるオペラ"Cosi fan tutte"の第9番の五重唱に基づいている。この五重唱は、恋人の貞操を試すために若い将校たちが偽りの出征をする場面で歌われるもので、わずか28小節しかない小品なのだが、独特でまた多様な表現が含まれている。
原曲のごく些細な部分をつぶさに観察し、様々な特徴を抽出し、それを極端に拡大してみたり、変形して全く別の見かけにしてみたり、新しい部分を付け足したり、順番を入れ替えたりすることで、焦点のぼやけたような状態が生み出される。別の見方をすれば、私のこの作品は、モーツァルトの五重唱の、私なりの鑑賞の仕方だともいえる。この作品の殆どの部分は、原曲とは似てもにつかないが、それでも何らかの形で様々な関連性を保っている。それがどんな関連性なのかは秘密にしておき、お聴きの皆さんのご想像にお任せしたい。
声楽アンサンブルVox Humanaの委嘱により作曲、その後、大幅に改訂し、2007年9月に初演と同じ西川竜太指揮Vox Humanaによって改訂版初演が行われた。
レチタティーヴォ・セッコの諸段階Vari gradi di recitativo secco2008108vo(2S,2A,2T,2B)based on recitativo secco of operas by W.A.Mozartバロックから18世紀頃のオペラに見られるレチタティーヴォ・セッコは、ストーリーの展開上重要な場面でも用いられることが多いにも関わらず、音楽的には殆ど重視されることがない。確かにレチタティーヴォ・セッコだけを取り出して聞いても、紋切り型の和声進行に、むりやり和音のピッチにはめ込んだような不自然な抑揚や、人工的なリズムなど、殆どが音楽としての楽しみにはほど遠い代物である。その一方、こうしたレチタティーヴォ・セッコの特徴は、台詞(や語り)と音楽(歌唱)との間の移行途中の状態を示すものとも見なすこともでき、その意味では大変興味深い存在でもある。
  この作品は、モーツァルトの幾つかのオペラから、レチタティーヴォ・セッコの部分を抽出し、素材として扱っている。これらのレチタティーヴォ・セッコを他の様々な状態の間の移行過程の段階と見なして、別のどのような状態へ移行しつつあるものなのかを考察し、次のようなタイトルを持つ6曲の小品にまとめた。
I. Tutti insieme(「フィガロの結婚」による)
II. Che vuoi?(「偽りの女庭師」による)
III. In somma(「フィガロの結婚」による)
IV. (Pare un libro stampato)(「ドン・ジョヴァンニ」による)
V. Coincidenza(「フィガロの結婚」による)
VI. Calmatevi idol mio(「ドン・ジョヴァンニ」による)

声楽アンサンブルVox Humanaの委嘱により作曲、2008年3月に西川竜太指揮Vox Humanaによって初演された。
両手のなかの踊りDance between Hands20058sho日本に育ったとはいえ、いわゆる西洋音楽だけに関わってきた私にとって、笙という楽器からまず連想するのは雅楽、特に篳篥や笛のうねるような線の背後で、音楽の持続性を強く支える合竹の響きだ。笙は極端に言えば合竹を演奏することだけのために進化してきたともいえるし、その意味では、笙という楽器の美質を最も発揮できるのは、合竹のような分厚い響きなのかもしれない。しかし合竹を模倣した音楽を書くだけでは、結局のところ雅楽よりも美しいものを書くことは出来ないだろうし、笙という楽器を既に固定したイメージのなかに押し込めてしまうことにもなる。とはいえ、私が今までやってきた、もともと笙とは全く異質な音楽を無理強いするのも、あまり意味あることには思えない。だから笙のために新しい作品を書くということは、肩肘張った言い方をするなら、笙の伝統的な音楽でもなく、自分が今までに書いてきた音楽でもない、別の新しい領域を探ることに他ならない。
題名は、笙という楽器が両手で包み込むようにして持たれて演奏されること、また曲のなかで反復的な音型が多く使われていて、まるで調子はずれな舞曲のように聞こえるかもしれないと考えたことに由来する。
立川舞台芸術フェスティバルの委嘱で作曲、2005年9月に豊明日美さんの笙により初演された。
Sanctus de la Messe de Nostre DameSanctus de la Messe de Nostre Dame20003perc (Steel Drum)Guillaume de Machaut 作品の編曲ハリソン・バートウィッスル卿の活動を特徴づけるものの一つに、古楽の編曲や古楽に基づく作品がある。2000年、バートウィスル卿の来日に際して、彼に倣って私も古楽の編曲をする事にした。マショーの代表作であるノートルダム・ミサのなかのサンクトゥスより3分の2ほどの部分を取り出し、スティールドラムのための版を作成した。これはささやかながらバートウィスル卿へのオマージュである。
Aura di BrunoAura di Bruno200810tub, pf委嘱:橋本晋哉、藤田朗子 正確なタイトルは、Aura di Bruno, oppure unこれは、近年私が取り組んでいる人の話し声を素材とした器楽作品のシリーズの一つである。

私はずいぶん前から人の話し声に興味を持ってきた。様々な子音や母音によって作り出される、絶え間なく微細な変化に満ちたピッチ、リズムや音色、不意に訪れる空白、いつの間にか、あるいはしばしば唐突に変化する話題など、人の話し声は(たとえ何が話されているのか理解できなくても)私を魅了して止まない。このような人の話し声の特徴をもつ器楽作品は可能だろうか?

人の話し声も音楽も、共に人間が生み出す何らかの組織化された音響である点では共通している。しかし、人の話し声を楽器で再現するために、私たちが慣れ親しんでいる西洋伝統音楽の記譜法で記述しようとすると、すぐにやっかいな問題が生じる。人の話し声が持つ微妙な音の長短を記譜しようとすると非常に複雑なリズムになってしまうし、絶えず変化するピッチも、様々な微分音を駆使したところで記述しきれるものではない。また、たとえ正確に記譜できたとしても、それを読み取って楽器で演奏するのはかなり困難なものになる。つまり、話し言葉も音楽(ここでは特に器楽)も、ともに人間の発する組織化された音響でありながら、互いに直接的な互換性が無いほど異質なのである。このような互換性の無さの理由の一つは、話し声が人の発声器官の構造に、楽器がそれを演奏する人の身体機能に制約されていることにある。このことは、人が音響を組織化して意味ある情報を作り出す時の身体的制約の重要性を示すものであり、大変興味深い。このように、話し言葉を器楽に移植することは、私にとっては器楽というもののあり方を考察するきっかけとなっている。

この作品は、イタリアの作曲家・指揮者ブルーノ・マデルナ(1920-73)の晩年、アメリカで行われたインタビューの録音に基づいている。写真で見るとマデルナはかなり肥満であったようで、インタビューの録音からもよく響く低い声の持ち主であったことがわかる。快活で人懐っこい話しぶりだが、不器用な英語で、また病気のせいか(彼は肺癌で亡くなった)時折声がかすたり、息が乱れたりしていて、どこかぎこちない。これらのことは、この作品の音楽的な特徴を規定している。
題名のAuraは、イタリア語の文語で、そよ風や呼気、雰囲気、霊気といった意味だが、マデルナの代表作の題名でもある。

橋本晋哉氏の委嘱で書かれ、橋本氏と藤田朗子さんに献呈されている。初演は2008年8月19日に「秋吉台の夏2008」ガラコンサートで行われた。
Music for "Nest" by Yukihiro TaguchiMusic for "Nest" by Yukihiro Taguchi20093'36"vn,sax,perc,pfensemble cross.art のfilm projectのために作曲。
田口行弘氏のフィルム"Nest"と同時演奏することを念頭に書かれている。田口氏のフィルムの中の様々なイヴェントを、可能な限り正確に正確に写し取ることで、この作品が作られた。
この作品はフィルムを伴わず、器楽作品として演奏することも可能だが、その場合でも、この作品は田口氏と私の合作と言って良いくらいに、フィルムに多くを負っている。
"la rondine" - duetto per soprano ed euphonium"la rondine" - duetto per soprano ed euphonium2010/20133S, euph委嘱:太田真紀、小寺香奈MOCK Ensembleの委嘱で書かれた、太田真紀さんと小寺香奈さんのための3分半ほどの小さなデュエット。片腕で抱えることができるユーフォニウムの持ち運びしやすさと、ソプラノの明るい響きから、軽やかでさっぱりした短い曲にしようと思った。曲は絶えず気まぐれに変化する流れの中のある一瞬を切り出したもののようにもきこえるだろう。歌われるのは20世紀イタリアの詩人Umberto Sabaの"A mia moglie"の中のごく短い部分で、彼の妻をツバメにたとえた箇所だが、内容ではなく言葉の響きからこれを選び(ちなみにプッチーニのオペラと同じ題名なのは偶然の一致)、ある程度音符が書き終わってからテキスト選んで当てはめた。
2010年10月に大阪で太田さんと小寺さんによって初演された。
科学論文の形式によるデュオDuo in the Form of Scientific Article2009/1010Bar,tub委嘱:低音デュオバリトンとチューバが学会発表をする。この手の学会ではままあることなのだが、研究領域の専門化が進みすぎて、内容を完全に理解できる人はほとんどいない。聴衆の多くは、部分的にしかわからない彼らの発表を、ひたすら続く音の流れとして体験している--まるで音楽のように。
「科学論文の形式によるデュオ」は、このような体験をシミュレートしたものだともいえる。科学論文(この作品においてより厳密に言えば、実験心理学における論文)の書き方というのは、細かいところまで様式化されており、この作品もそれに従っている。すなわち、全体は「概要」(abstract)、「目的」(purpose)、「方法」(method)、「結果」(results)、「考察」(discussion)、「結論」(conclusion)より構成されており、細部に関しても所定の様式に従っている。
なお、ここではある記憶実験が報告されているが、学術的な研究報告としてではなく、我々は科学論文と共通した構成を持つ別のものとして聴かれることを望んでいる--まるで音楽のように。

低音デュオの委嘱によって2009年に作曲され、2010年に改訂版が作成された。
線と空間Sen to Kuukan (Line and Space)20106mix-cho, pf委嘱:成蹊大学混声合唱団「線と空間」は、寺田寅彦の随筆集「柿の種」からテキストがとられている。この本は、大正九年から昭和十年にかけて書かれた、数行から2ページ程度の、殆ど題名もつけられていない多数の短い断章から成る。「線と空間」で用いたのは、幾何学的な比喩を使って連句(五七五・七七を交替で詠んでいくもの)を捉えた一節(岩波文庫、p.111-112)である。

曲全体は、大まかにテキストの構成に沿うような形で作られている。ただし私の関心は、内容を情感的に表現したり描写したりすることではなく、朗読した時の抑揚や音韻的な特徴など、テキストが持つ音響的な側面を際だたせて、そこから音楽をひきだしてくることにあった。

「線と空間」は成蹊大学混声合唱団の委嘱で作曲した。私にとって日本語をテキストとした最初の作品であり、しかも大人数の合唱のために作曲するのも初めての経験だった。このような大きなチャレンジの機会をいただいた成蹊大学混声合唱団の皆さんと指揮の西川竜太さんに深く感謝している。
Gioco di dita e respiroGioco di dita e respiro20106fl委嘱:大久保彩子ここ数年の私の関心のひとつは、楽器を弾く時の身体動作にある。ごく普通の奏法であっても、その楽器を鳴らすためには関連する体の部位(や時には全身)の動きを巧みに制御することが求められる。フルートの演奏には息と指という二つの身体動作が大きく関わっており(もちろんそれ以外の身体要素も関与してはいるが)、この曲の題名はまさにフルートを演奏することそのものを指している。この作品では特殊奏法が多用されたり、特定のアクションが誇張されたり、演劇的な要素が導入されたりしているわけではなく、むしろ「普通の」響きに限定されてはいるものの、作曲にあたっては、単に結果として鳴り響く音だけではなく、ほとんど常に「その音をどうやって出すのか」ということが念頭に置かれていた。そしてその際には、今まで接してきた大久保彩子さんのすばらしい演奏が大きな助けとなったことは言うまでもない。
松平頼暁のための傘Umbrella for Yori-Aki MatsudairaJul-057pf委嘱:大井浩明松平氏の傘寿を記念して作曲されたこの作品は、最近取り組んでいる作曲家の発話の録音に基づく連作の一つである。この連作では、インタビューなどにおける作曲家の話し声の録音が、西洋伝統音楽の記譜法に従ってできるだけ忠実に採譜され、素材として用いられている。
人の話し声も音楽も、共に人間が生み出す何らかの組織化された音響である点では共通しているが、人の話し声を楽器で完璧に再現することは殆ど不可能である。人の発話も楽器も別の物理的・身体的制約に従っていることや、我々のなじんだ西洋伝統音楽の記譜法が人の話し声の記述には適していないことなどにより、自然な発話と器楽とは互換性が非常に乏しいのである。このことが逆に、楽器による音楽とは何なのか、どのようなものであるかを際立たせているようにも思われる。人の自然な発話を器楽に移植すれば、それはなかなか話し声には聞こえないし、普通の器楽からもどこかはずれたものになるだろう。
この連作では自分の作品には殆ど見られない複雑なリズムが用いられる。現代作品では複雑で難解なリズムをしばしば目にするが、それらの作品の多くは非常にシステマティックな手法によってリズムが生成されている(ようだ)。しかし、この連作に見られる複雑さはそうしたいわば「理論的な」方法によって生み出されたものではない。現実のある時点にある場所で発せられた人の自然な話し言葉をとらえて丁寧に記述することで、日常生活の中にあるごく些細な出来事の複雑さがあらわになる。システムや方法の複雑さよりも、そうした現象自体が持つ微妙さや脆さに強く惹かれる。また、日常生活の中の出来事を転写することで作曲するのは、写真や映像を加工して制作される美術作品と似たところがあるかもしれない。

「松平頼暁のための傘」では、松平氏が彼の作品を特集したラジオ番組に出演した際の録音が素材として用いられている。これまでに書いたものはいずれもイタリアの作曲家の発話に基づくもの(「ヴィオラとピアノの通訳によるL.B.へのインタビュー」(2006)はルチアーノ・ベリオへのイタリア語の、「ブルーノのアウラ、あるいはチューバとピアノの通訳によるインタビュー」(2008)はブルーノ・マデルナへの英語のインタビュー)だったが、日本語による発話を素材とするのは初めてである。
この曲の前半で用いられているのは、1986年頃放送された番組で、松平氏が一人で解説をつとめている。おそらくあらかじめ綿密に用意された台本に基づいて淡々と説明が行われ、発話のテンポは比較的安定しており、また日本語の特性により、等拍に近いリズムが続く傾向がある。後半は2006年に放送された番組に基づいており、ここでは西村朗氏との対談が行われている。前半とは異なり、かなりリラックスした雰囲気の中で、生き生きとした会話が行われている。こうした自由な会話の特徴として、時々言葉を探して沈黙したり、言い淀んだり、発話に緩急の変化が多く見られる。また、西村氏の発話は抑揚が大きく、より声域が低く、松平氏の話し方と対照的である(この曲の後半に現れる低音域の音型の多くは西村氏の発話である)。なお、この作品は特に録音された発話に忠実な部分が多く、そのためこれまで以上に線的な性格がかなり強く前面に出ている。
告知、会見、ユーフォニアムannonce, interview, euphonium20117euph委嘱:小寺香奈題名は、この曲の素材を簡潔にまとめたもの。 はじめの2種類は、フランスのある若手女声ポップ歌手の話し声の録音を、できるだけ正確に採譜したものに由来する。一つは、テレビのヒットチャート番組のスポットCMで、かなり誇張された抑揚で、歯切れよく話している。もう一つはインタビューでの話し声で、比較的平坦で流れるように、しかし時々言葉を探して言い淀んだりしながら、意地悪な質問に答えている。
この曲の三番目の素材は、ユーフォニアムという楽器そのものである。人の話し声という、もともと楽器とは全く異質のものを演奏することで、この楽器自体のキャラクターが際立ってくるだろう。 小寺香奈さんの委嘱で2011年に作曲され、大阪での彼女のリサイタルで初演された。作曲中の打ち合わせで、複雑でややこしい譜面を見ながら淡々と吹きこなしていく小寺さんの姿に、非常に勇気づけられつつ筆を進めたことを、記しておきたい。
Gioco di braccio e labbraGioco di braccio e labbra20106trbフランスのトロンボーン奏者/作曲家のDominique Delahocheのために作曲された。題名は「腕と唇の遊び」といった意味で、文字通りトロンボーンを演奏する行為そのものを指している。
気象情報の形式による六重唱曲Sextet in the Form of Weather ForcastJul-05106vo(3females, 3males)委嘱:Vox Humana私たちは普通、ラジオやテレビの天気予報を音楽としては聞かない。天気予報は地域、風、空模様、波浪などの情報が順序よく読み上げられ、また使われる単語の種類も非常に限定されていて、一定の様式感を備えているが、それでも私たちにはそれが音楽のようには聞こえない。では、日本語の全くわからない外国人には、日本語の天気予報はどのように聞こえるのだろうか?おそらく意味内容は全く理解できないが、何らかの規則性を持つ音響であることはわかるだろう。もしそれが音楽のように感じられるとしたら、それはどのようなものだろうか?
 この作品は、1978年のある日、日本のテレビ局で放送された天気予報の録音を素材としている。当時のアナウンサーは今よりもはるかに淡々と原稿を読み上げており、そのことがある種の様式感をより一層強調している。この録音を採譜し分析することによって、日本語の天気予報が様々な特徴が見えてくる。この作品はそれらを利用して作られた。この作品は天気予報に聞こえるだろうか?あるいは単に音楽でしかないだろうか?
 Vox Humanaの委嘱により作曲された。
Charlie`s MelodyCharlie`s Melody20134pf委嘱:加藤チャーリー千晴長年の友人加藤チャーリー千晴のために作曲されたこの曲は、どもったり言い淀んだり間違えたりよろめいたりつまづいたり脇道にそれたりしながら続く一本の旋律である。
Jim and MilesJim and Miles2014/199tp,gt委嘱:曽我部清典、山田岳トランペットとギターのための一種のディヴェルティメント。題名は、2人の著名なジャズ・ミュージシャン、ギタリストのジム・ホール(1930-2013)とトランぺッターのマイルズ・デイヴィス(1926-91)から取った。ある情報によると、この2人が共演することは生涯一度もなかったという。
V4PTV4PT20141.5vn, tub, pf(4hands)題名はこの楽器の編成(Violin, 4-hands Piano, Tuba)に由来する。ヴァイオリンとチューバの演奏する旋律と、それを巡る連弾ピアノのおしゃべり。
ParenteseParentese2014109female-vo委嘱:女声合唱団「暁」
鍵盤ホーミーKeyboard Khoomii201544melodica委嘱:金沢ナイトミュージアムホーミーは、モンゴルの民俗音楽に見られる倍音唱法のこと。絞りだすような低い声を出しながら、口の中の形を変えると、共鳴によって高い音域で漂うような旋律が浮かんでくる。
似たような効果が鍵盤ハーモニカでも生じることに気づいた。鍵盤ハーモニカでも、低音を伸ばしながら高音域の鍵盤を押すと、無遠慮な低音のなかに高い音がかすかに聞こえたり、聞こえたとしてもキーによって共鳴の仕方が異なって、ムラのある様々な響きが浮かび上がる。そうした鍵盤ハーモニカの中の様々な共鳴と響きの変化をじっくり聴いてみたい、というのが「鍵盤ホーミー」での関心であった。
FlageoletsFlageolets20155fl, vn, va, vc委嘱:秋吉台の夏2015「秋吉台の夏2015」のために書かれた5分ほどの小品。
擦弦楽器のハーモニックス(フラジョレット)は、繊細で時に神秘的な音響効果を求めて使われることが多い。しかし、ナチュラル・ハーモニックスの響きは、むしろむき出して粗野な表出力も持つ。そこで、この作品ではヴァイオリン、ヴィオラ、チェロを、ナチュラル・ハーモニクスと開放弦だけしか使えない特殊な楽器と見なして、その音色を存分に味わってみることにした。
ところで、フラジョレットという言葉はもう一つ(というか、こちらの方が先のようだが)、欧米の農村などで使われた素朴な笛のことも指す。この作品の題名にこれほどふさわしい言葉は他にない。その意味で、この作品はアルト・フルートと弦楽三重奏という2つのフラジョレットによる二重奏なのである。
trio-efforttrio-effort201616tub, t-sax, pf委嘱:東京現音計画チューバ、サックス、ピアノという3つの楽器の組み合わせには、避けがたい不均衡がある。チューバはその豊かな音量ゆえに他の2つを覆い隠したり、ベルが天井を向いているため客席には天井からの反射音が届き、全く異質なものとして響いてきたりする。サックスもまた、チューバほどでないにせよ音量豊かであり、しかもベルが正面を向くために客席の我々はかなり剥き出しの音を浴びることになる。ピアノはこれらの中で最も大きな筐体を持ち、しかも最も幅広い音域を持つにもかかわらず、他の2つにしばしばマスクされてしまいがちになるだろう。
これらの楽器によるアンサンブルでは、均質な素材を用いて均整の取れた調和的な音楽を作っていくやり方は、おそらく現実的ではない。むしろ、本質的な不均質さや不平等、異質で居心地の悪い組み合わせを前提として、どうにか三重奏を成立させていくための不断の努力(effort)が、作曲家にも演奏家にも要求されるであろう。
Kitaibaraki 120179trb, pf委嘱:Contemporary Duoこの十数年ほど私がよく用いている方法の一つに、人の話し声を採譜し、器楽に移植するというものがある。私の興味は、話の内容よりもその発話の音響的な特徴にあり、器楽化に伴って意味内容はすでに失われている。作品は語られた意味を表現するのではなく、かなり抽象的なものである。トロンボーンとピアノのためのKitaibaraki 1でも同様であり、題名はここで用いられた素材の由来を記録したものに過ぎない。鑑賞の手がかりになるとは思えないが、この題名に好奇心を持たれた方のために記しておくと、某お笑いタレントが題名となった地を訪れ、現地の若い一般人女性にインタビューしたときの発話が、曲中いくつかの箇所に埋め込まれている。このインタビューでは彼女の目撃した痛ましい出来事が語られているが、彼女の話し方は、今どきの若者らしい抑揚とこの地域の方言が相俟って、どこか長閑ですらあった。